‐‐大友さんにお伺いします。今回『MACHIDiary』の中で、アカデミーに特化した【未来】というコンテンツをスタートさせようと考えられたのは、どういう想いからでしょうか?

 

大友「『アカデミーって大事だよね』ということは昔から分かっていたことではありましたが、今まではまずトップチームの環境整備にずっと注力をしてきました。今シーズン、ようやくJ1ライセンスに必要なトップチームに関わるものが揃いました。それと同時にこれまでもアカデミーのテコ入れもやってはきましたが、よりフォーカスしていきたいなと思いました。僕ら事業サイド(フロント側)の方ももっとアカデミーのことを知らないといけないと感じていますし、それを外に発信することで共感していただける方が増えていってほしいという想いもあります。よりアカデミーが注目されて、多くの人達に応援して頂けるようになっていきたいと思ったのがキッカケです。」

 

‐‐重田先生や守屋先生といった町田のサッカーを創り上げた方々を知る大友さんだからこそ、ゼルビアで作っていきたいハッキリとしたアカデミー像があるのではないかと思うのですが、そのあたりはいかがですか?

大友「自分がFC町田で育ったという個人的な想いもあるとは思いますが、FC町田のように、ジュニアから作っていったというボトムアップ型の歴史を持つクラブは、Jクラブの中でも珍しいですし、そこは他のクラブと差別化していかなければいけないだろうと。時代の流れやその時のフットボールの環境もありますけれども、この歴史は紡いでいきつつ、さらにドライブを掛けていくところはやりたいですよね。僕がFC町田でプレーしていた当時は、全国のどこに行っても『わあ、町田が来た』と、いうような、周りにプレッシャーを与えられるような存在でした。だからこそ自分たちも絶対に結果を残さないといけない。と、いうような雰囲気もありました。だからこそ。大きな大会で3位だったとしても、けして満足できないところがありましたし、そういうプライドがあったんです。そのころと同じように今のアカデミーの選手たちにもプライドを持ってもらいたいと思ってます。プロの選手になるならないは別にしても、そういったプライドを持つことは良いことだと思っています。街に誇りも持てますし、そういう意味で歴史を紡いでいきたい想いはあります」

 

‐‐育成年代を良く知る皆さんは『菅澤大我がゼルビアに行った!』ということはかなりの大きな衝撃でしたが、もともと昨年に菅澤アカデミーダイレクター(AD)を招聘したのはどういう理由からでしょうか?

大友「恥ずかしい話ですけれど、僕らも育成が大事だということはわかっていながら、そこの指導であるとか、指針であるとか、骨格みたいなところまでは見られておらず、『やっておいてください』というような状況でした。ただ、今後それではいけないだろうということで、指導者を指導できるくらいのパワーを持った方に来てもらおうと考えました。『股抜きが快感』というような気質が町田にはあると思っているのですが、そういう雰囲気を持っている人が良いなと思っていた中で、唐井GMの推薦で菅澤さんに辿り着きました。」

 

‐‐菅澤さんはもともとゼルビアにどういうイメージを持ってらっしゃいましたか?

菅澤「自分は読売クラブで育ったので、町田は隣町というイメージでしたが、その読売クラブや自分と同年齢の人達に町田を意識せざるを得ない人がたくさんいました。だからこそこっちは“ヨミウリ”であり、かたや“町田”というお互いの軸の中で、町田から優秀な選手がヨミウリに入ってくる流れになっていた頃だったので、チームとの対戦というよりも、個人的に町田はタレントを生む印象が強かったですね。」

 

‐‐中山さんのご出身地でもある山梨県の韮崎もサッカーどころだと思いますが、そういう意味で町田を意識されていましたか?

中山「僕が小学生の時は町田のクラブが凄く強いイメージはありながら、直接町田のチームと対戦するようなことはなかなかありませんでした。ただ、当時は東京の強いチームがある場所という認識でした。」

 

‐‐前嶋さんはサッカー王国・静岡のご出身ですが、町田に対するイメージはありましたか?

前嶋「もう僕の小さい頃のライバルは町田と読売クラブという感じでした。『ここには絶対に負けてはいけない』チームとして、清水FCの中でも聞いてきた名前でした。」

 

‐‐土岐田さんはまさに町田のご出身ですが、こういう話を伺っていて率直にいかがですか?

土岐田「町田がサッカーどころという意識はそこまでなかったですね。あくまでも自分が育った街であって、近くにあるヴェルディ(読売クラブ)はメチャクチャ強いイメージはあったんのですが、町田事態に全国的なサッカーどころというイメージはなかったです。」

 

‐‐少しずつ時代も変わってきているということでしょうか?

大友「土岐田はCYD FCという単独チームで全国大会に出場していたるので、町田という地域全体の事をそこまで意識していなかったのかもしれません。ただ、単独チームで全国大会に出場することはそれはそれで凄いことなんですけど(笑)、時代は変わってきているかもしれないですね。」

 

‐‐今のゼルビアのアカデミーを菅澤さんはどのように捉えてらっしゃいますか?

菅澤「今までしっかりと作ってきたベースから、さらに世間により認知されるところに向かう過渡期かなと思っています。」

 

‐‐今年から中山貴夫さんと前嶋聰志さんが新たにユース監督、ジュニアユース監督として加わりました。2人の実績を考えるとかなりインパクトのある人事だと思いますが、その経緯を教えていただけますか?

菅澤「まず今までFC町田ゼルビアのアカデミーを支えてきてくれたスタッフが、長期間にわたって関わり、このクラブを育ててきたという流れがあります。その中で、彼らも新たな挑戦をしたいということで、今回巣立つことになりました。そういった中で新しい指導者を探さなければいかなかったわけですが、私はゼルビアが指導キャリアで7つ目のクラブになります。様々なクラブで様々な指導者と仕事をさせていただき、多くの素晴らしい指導者と出会ってきました。その中でも特に素晴らしいメンバーを今回招聘することができました。私自身もずっとヴェルディで生きていく人間だと思っていましたが、17年前にそこを出たことで、まったく違う環境の人と知り合うことができ、多くの指導者と出会い、多くの経験を積み重ねることができました。そういう経緯の中で、今回たまたま様々なご縁とタイミングもありこのメンバーに声を掛けさせてもらったところ、このメンバーが揃ってくれました。『本当にタイミングだったんだなぁ』ということと、自分がこれまでにいろいろなところでやってきたことの1つの成果かなと感じています。実際の成果はこれから出すものですが、なかなかこれだけ異色なメンバーを集めることは難しくて、それでも引く手あまたであるスタッフがこのタイミングで来てくれるということは、すべてが重なり合ったのかなと思っています。」

 

‐‐そもそも菅澤さんはご自身の指導キャリアをどう紹介されますか?

菅澤「オレはオレ、です(笑)。誰のコピーでもないんだと。すべて自分が作るオリジナルで勝負してきているというところで、名刺代わりは『オレのサッカーはこうだから』ということを、どうやってピッチで表現できるかと。それをどんな条件、どんな環境でもやり遂げてきたことに対しては、自分の中でも自信があります。」

 

‐‐せっかくなので経歴も教えてください(笑)

菅澤「今まで、あまりこのような取材を受けてきていないので、答えるのが難しいですね(苦笑い)ですが、せっかくですので、やってみましょう(笑)。全ての始まりは読売クラブです。自分は選手としてプレーをさせていただいて、そこで感覚的なことや言語化できるものも学んだので、自分のサッカーの根本はそこにあるような気がしています。ただ、それだけではたぶん“ヴェルディの菅澤”という形になってしまうので、とにかく“菅澤”という名前だけで渡り歩いていける指導者に早くなりたかったという想いは、いつも持ち合わせていました。結果的に7クラブにも在籍することになるとは思いもしなかったですけど(笑)、それによって多くのエッセンスが混ざって、今のオリジナルに辿り着いている気はしますね。まだまだこれからではありますけど、簡潔に言うとこんな感じです。」

 

‐‐では、中山さんにもご自身のサッカーキャリアをご紹介していただければと思います。

中山「ちょうど僕らはJリーグの開幕が高校を卒業した後で、『サッカーで飯を食う』という時代ではなくて、そんなことを言っても親も含めて『何を考えているんだ?』というような状況でした。それでも富士通(現・川崎フロンターレ)にたまたまサッカーで入ることができ、そのあとは熊本で10年ほどプレーしたのですが、そこでたまたま手伝ったサッカースクールを経営していた会社が、バブル崩壊で立ち行かなくなったんです。自分も指導者をやりたかったこともあり、その会社を引き継いで、急に指導と経営と運営とすべてをやるような形になりました。それがブレイズ熊本というクラブです。そこからクラブを大きくするためには何を売りにするかというところを考え、『選手を上手くするしかない』と、思い『ここに来たらみんな上手くなるんだ』みたいなものを売りにしていこうと考えました。先ほどの菅澤の話と重なりますけど、自分は誰かの下に付いて指導したことがないので、もういろいろなサッカーを見まくって、本当にオリジナルでみんなが見ていて面白いと思えるものを作り上げようと試行錯誤した20年ぐらいがありました。その中でジュニアやジュニアユースの監督をしながら、全国大会に出られるような力を付け、認知されるようになってきて、九州の中ではある程度誰からも認められるようなクラブになりましたし、指導者としてもそういう立場になることができました。ただ、僕も『ずっとここでやっていくんだろうな』と考えていたところに、菅澤が熊本へ来たことで運命的に知り合って、そこから自分も『ああ、こういう考え方があるんだな』という刺激を受けたんです。そのあとで菅澤に誘われて、Jリーグクラブのロアッソ熊本に入って、1年ではありましたが、一緒に仕事をすることになりました。また、その時は『きっとここで長くやっていくんだろうな』と思っていたところ、今回ここで自分自身のチャレンジという部分も含めて、今度はゼルビアでまた菅澤と一緒に頑張ろうというような形になりました。」

 

‐‐富士通サッカー部は今のフロンターレの母体ですが、その源流を作られたような感覚はありますか?

中山「僕らの時は富士通もプロ化するようなタイミングで、名前が富士通川崎に変わり、川崎フロンターレに変わる頃でした。ただ、地域の方たちと凄くコミュニケーションを取るというところで、選手たちが商店街に行ったりすることが急に増えましたし、いろいろな場所にサッカースクールへ行くことになったりとか、そういう変化を経験はしました。僕は戦う舞台がJリーグになる頃にはもう熊本に行っていたので、自分が何かをした感じはないですけど、その時に一緒にやられていた方が日本のサッカー界のいろいろなところで活躍されているので、そこは良い経験になったなと思います。」

 

‐‐指導されていたブレイズ熊本も好選手を輩出されるクラブで、今年のJ2でゼルビアと対戦するチームにも教え子がいますね。

中山「そうですね。全部で10数名はプロとして頑張ってくれていて、まだプレーしている選手も数人はいますし、もう引退して指導者やスカウトとしてサッカー界に関わっている人材もたくさんいますので、そういう仲間がどんどんこれからも増えていってほしいですし、街クラブではありましたけど、そういう選手たちがたくさん出るようになってきたことは誇りに思っています。」

 

‐‐熊本の育成年代で中山さんのことを知らない方はいらっしゃらないと思いますし、熊本を出ること自体が大きな決断だったと想像しますが、その理由を教えていただけますか?

中山「もともとブレイズからロアッソに移った時も話題にはなりましたし、その時はある意味で大津高校という強豪校しか進路がないような状況だったので、ジュニアユース年代で頑張ってきた子たちが目標にする場所を、もう1つJリーグのクラブで作るんだという形でブレイズを出ました。今回もまず『何でわざわざ熊本から出るんだ』ということも踏まえて、凄く難しい決断でした。もちろん自分が熊本や九州だけで経験を積むことも悪いことではないと思いますが、東京に来て、自分がいろいろな経験をすることによって、何か地方に還元することができるかもしれないですし、自分のキャリアも含めてチャレンジしたいということを周囲と話をしながら理解してもらった上で出てきたので、よりゼルビアでしっかりとした成果を出さないといけないなと考えています。」

 

‐‐大友さんは今伺ったお話も含めて、中山さんにどういうことを期待されていますか?

大友「僕は指導の現場にいる人間ではないので、そういう情報には疎いですし、もちろん事前に話はしていただいていましたが、基本的には菅澤ADにお任せをしていました。『優秀な方々しか呼びません』と言われていたので(笑)、『是非』というところでゼルビアに来ていただきました。今日こうやって改めて話を聞いて、さらに期待が膨らみました。」

 

‐‐次は前嶋さんに、これまでのキャリアを伺えればと思います。

前嶋「僕は地元の静岡学園高校に進学したんのですが、父親がずっとサッカーの指導者をやっていました。自分が選手としてプロを目指すには難しいと感じていたころ、『ちょっと一緒にサッカーを教えてみないか?』という話をもらい、そのころから『サッカーの指導者になりたいな』という想いを持ちはじめました。当時から子供が凄く好きだったこともあり、早々に指導者として生きていく方に物事を考え出しました。幸運にもジュビロ磐田のアカデミーで仕事をすることができ、その時に練習試合の対戦相手として出会ったのが大我さんでした。僕には自分の帰る場所というか、自分がサッカーをやってきたクラブがないので、大我さんと対戦して改めて思ったことは『どうしたらこの世界で生きていけるんだろう』と。この先もサッカーの指導者はしていきたいけれど、自分から見たらもう強烈な人たちが周りにいる中で、どうやったら生き残れるかなと、生きていくために何が必要かなということを、とにかく考えるようになったんです。そこで、人の持っていないものを勉強してみようと考え、海外留学をしました。その他にも、いろいろなことを試みていた中で、吉田達磨さん(現・ヴァンフォーレ甲府監督)に出会って柏レイソルで働くことになり、凄い方々とサッカーの仕事をすることができました。僕はここでずっと働く人間なんだというクラブがない分、少しでも早く自分が行けるところのレベルまでは経験したいと。それはトップチームなのか、どこかのアカデミーのカテゴリーの監督なのかはわからなかったですけど、そういったことも踏まえていろいろなものを見ておかないと、自分にチャンスは来ないだろうなと。そのチャンスというものを感じるたびに、『自分と一緒にやらないか?』と言って下さる方の元に移籍しながら、新しい経験をとにかくしていかないと、自分の幅は広がらないんだろうなと思ってきました。奇しくも大我さんと同じように、僕もゼルビアが7クラブ目なんですけど、昨年は横浜FCのヘッドコーチを務めさせていただき、J1リーグという、国内のTOPリーグでの経験を積むことができました。トップチームの監督以外はいろいろなことを経験させてもらった結果、大我さんにも『自分はやっぱり育成年代が、時間を掛けて選手を育てていくところも含めて、今までやってきたことを活かしながら一番自分の力を発揮できると思うんです』という話をして、今回ゼルビアで契約をしていただけることになりました。なので、今まで30代は少しでもいろいろなことを経験したいと考えていた自分から、ゼルビアでまた育成をやらせてもらえることが新しいチャレンジでもありますし、次のステージでの新しい一歩目になるのかなという想いが僕の中には凄くあって、そういった中でさらに自分が育成の指導者としてやっていく上での指導力やキャリアも、より養っていけたらなと思っているところです。」

 

‐‐前嶋さんはスペインのエスパニョールでも指導されていましたが、その経験は今のご自身にどう生きていますか?

前嶋「2つあります。1つは本当に右から見ていたものを、左から見せられるような衝撃が、スペインのサッカーの考え方に関してはありました。小さな局面を作り上げていって、そこから大きなものを作っていくという考えがずっと僕の中にはあって、そういう目線で大我さんのような人たちと接していた中で、『そこまでオレには見られない』とか、選手でやっていた方々の感覚まで自分がどうしても届かないことが結構ありました。ただ、スペインでは大きなものから細かいものを作っていくような形で、より大枠から緻密になっていくみたいな、まったく違う見方を教わったんです。それを目の当たりにして、『ああ、これでもいいんだ』って。自分がサッカーの世界で生きていく上で、この考え方を身に付ければ、ひょっとしたら何か武器になるものが作れるのかもしれないというものと出会えたことは、凄く大きかったです。それを自分がどこまで突き詰められるかもそうですし、それが正解なのかはわからないですけど、自分が指導者として生きていく指針になったのは1つです。もう1つは、言葉です。スペインで指導してみて、他の国の言語でサッカーを教えることが、どれだけ選手に伝わらないかが分かりました。やっぱりサッカーを指導する上で言葉というものが欠かせないことは、自分の中でかなり大きなインパクトになりました。もともとスペインにずっといようとは考えていませんでした。人が持っていないものを学びたくて、日本で指導するために行ったところもあったのですが、そのおかげで、母国語で自由に喋れて、自分が伝えたい想いをすべて伝えられることがどれだけ大事かということが分かりましたし、その2つに関しては、今の自分があるのはスペインのおかげだなと感じています。今でも『自分の指導で大事なものは言葉です』と言い切れますし、選手にどう伝えるかが大事なことだと思う中で、自分自身サッカー選手としてのキャリアがないことをコンプレックスとして捉えていました。そこで『何かに秀でていかないと指導者としては難しい』という想いがあったので、その2つに気付けたことは凄く大きかったなと思っています。」

 

‐‐去年はJ1のステージでヘッドコーチを務められていますが、その経験はどういう形でジュニアユースの指導に還元できると思いますか?

前嶋「トップでやってきたことが直接育成に関わるかどうかは凄く難しいですね。トップチームの大きな目的は、何よりも週末に勝利することなんです。だから、僕の中でトップチームでやる指導者は凄く短期的で、言い方は悪いですけど、“忘れてもいいようなもの”をトレーニングしていく、と思いました。もちろんその中にも課題を改善したり、様々な準備が必要ですが、まずは今週末に勝つための準備を、トレーニングをしていくカテゴリーかなと感じました。それに対して育成は凄く長期的で、“忘れてはいけないもの”を身に付けていく時間を作っていくことなのかなと。なので、トップと育成は『職業が違うな』という印象があります。でも、トップの選手がどういうふうにトレーニングと向き合うかとか、どういうふうに監督やスタッフと接して学んでいくかというところで、指導者として選手をこっちに向かせるための基準は分かった気がします。あとはトップにいるために彼らが『このレベルでいいんじゃないか』と感じているものと、『それでは難しいんだよ』という自分の中でのギャップは、はっきりと知ることができたと思うんですよね。『このカテゴリーでは、このレベルまで選手の力を引き上げないと』という感覚、そのレべルを見られたことは大きいのかなと思っています。」

 

‐‐大友さんは今のお話を伺った上で、前嶋さんに期待したいことはどういうことでしょうか?

大友「もう遺憾なくその経験を発揮していただきたいなと。皆さんそうですけど、子供たちに良い影響が出るだろうなと思って、楽しみですね。」

 

‐‐土岐田さんには現役を引退してから、指導者になろうと考えた流れをお話しいただければと思います。

土岐田「現役を辞める直前の考えは、『すぐにトップチームの現場に行きたい』と思っていました。いろいろなカテゴリーのコーチがありますけど、『トップチームだけで働きたい』と思っていました。ただ、辞めてから今後の人生設計を考えていくうちに、『まだ何のコーチングスキルもない自分がトップチームで何をするんだ?』と。僕が選手だったら、それぐらいの指導者に何かを聞きに行ったりはしないですし、『え?何でいるの?』という感覚になるはずなんですよね。それは厳しいんじゃないかということもあって、一から勉強しなくてはいけないと。それでまずはアカデミーではなくて、スクールで幼稚園生だったりおじいちゃんおばあちゃんだったり、いろいろな世代の方に接して、そこで人によってどのような言葉を変えていくかを勉強しなくてはいけないと、現役を辞めて2か月ほど経った頃にそう思い、唐井GMに『スクールからやらせてください』という話をしました。そういう経緯でスクールからスタートしたんですけど、ちょっと自分の中で打算的な考えもあって、ジュニアがゼルビアにできることが決まった時に、アカデミーの人数もギリギリだったので、『これは自分にチャンスがあるんじゃないかな』と(笑)。もちろん本気でスクールをやりながら、当時のアカデミーダイレクターだったトクさん(徳永尊信=現・愛媛FCレディース監督)にちょくちょく“ジャブ”を入れていました。『トクさん、ジュニアの担当見つかりました?オレ、空いてますよ』と話したりして、トクさんからは『待て待て、オマエの順番は一番下だから。オマエ以外のヤツを探してくるから』と言われていたんですけど(笑)、結局なかなか決まらなかったんです。それでここで行けば絶対に自分が担当できるような空気感になった時に、それまでは冗談っぽく言っていたんですけど、『トクさん、やらせてください』と。スクールもいろいろな人と接することができて本当に楽しかったんですけど、今後の自分のことを考えた時にアカデミーに行きたい気持ちが強くなってきたので、ジュニアの立ち上げに関わらせてもらうことになりました。」

 

‐‐かなりご自身の熱意とキャリアプランがマッチした感じですね。

土岐田「そうですね。“ジャブ”は年間を通して入れていました(笑)」

 

‐‐ジュニアは今年で立ち上げて3年目ですが、小学生の指導は率直にいかがですか?

土岐田「まず楽しいという想いが一番にあります。スクールを担当している時からジュニアユースやユースの活動にも参加させてもらっていたんですけど、やっぱり小学生の方が『入りやすい』というか、ほぼまっさらな状態で僕の指導を素直に受け入れてくれる部分があるので、やりやすさは凄く感じています。」

 

‐‐町田のご出身ということと、ゼルビアでプレーされていたことで、サポーターや地域の方の土岐田さんに対する期待も大きいはずですし、土岐田さんもこのクラブに愛着があると思いますが、ご自身がゼルビアで指導者をやる意味についてはどのように感じてらっしゃいますか?

土岐田「選手として帰ってくる時の歓迎ぶりは、大宮アルディージャと大分トリニータにいた時とは比べ物にならなかったですね。Jリーグに昇格してから、地元出身選手の在籍はほぼ初めてに近い形だったので、僕も凄く嬉しかったですし、『このチームのために頑張らないといけないな』という気持ちにさせてもらったので、そうやって思ってもらえるような地元出身選手を育てようと、今はクラブが力を入れている段階の中で、ファン・サポーターの方により深く応援してもらえる選手を地元から出したい気持ちはあります。」

 

‐‐昨年菅澤さんがゼルビアにアカデミーダイレクターとして来られて、今までのアカデミーと大きく変わった部分が多々あったと思います。そのことで土岐田さんやアカデミー全体が受けた刺激については、どのように感じてらっしゃいますか?

土岐田「今までのゼルビアのアカデミーと言えば、僕の中には“堅守速攻”というイメージがあったんですけど、大我さんが入ってこられて、『自分たちがボールを持って、主体的に攻撃する』というスタイルに変わりました。あとはジュニアでもよく教えていただくんですけど、凄く細かいところまで見られる方だということが最初は衝撃的でしたし、『選手の時に教わりたかったな』と思いましたね。たとえば今の小学生たちには“ターン”の練習をよくやっているんですけど、それ1つとっても『そこまでこだわるんだ』という印象が強くて、凄く刺激を受けています。」

 

‐‐大友さんにとって土岐田さんはゼルビアの後輩でもありますし、町田という地域の後輩でもありますが、期待される部分はいかがですか?

大友「土岐田が法政大学でプレーをしていた時に、当時のゼルビアスタッフは全員が何でもやっていた時代だったので、私がプレーを見に行ったことがありました。『法政に凄いフォワードがいたんですけど、町田出身らしいんですよ』とクラブに持ち帰ったら、『とっくにJリーグ入りが決まってるよ』と言われたことがあったんです(笑)。その時から『土岐田ってヤツは凄いなあ』というイメージがあったんですけど、たぶんCYD FCでプレーしていた選手で、FC町田にいたわけではないので、先ほど土岐田から町田の歴史についての話がありましたけど、『町田のサッカーへの想いや認識はそこまでないだろうな』と思っていた中で、町田に戻ってきてくれて、ゼルビアで10番を付けてくれたことが、僕は凄く嬉しかったんです。『もうこっち側に引っ張ってきてやれ』みたいな想いがずっとありましたから。今はジュニアの担当をしてくれていることも凄く嬉しいですし、こうやって今話を聞いていると『成長したんだな』と涙が出そうになりますね(笑)」

 

‐‐これだけの人材が集まってきたわけですが、菅澤さんがここからのゼルビアアカデミーの展望として、今の段階で持ってらっしゃるものを聞かせていただけますか?

菅澤「よく“一貫性”が重要だと言われますよね。Jリーグもそういう取り組みをしていて、それも素晴らしいことだとは思っている一方で、とにかく自分は彼らのような“職人”には“職人”として、何かに囚われることなく、『ぶっちぎって』やってほしいなという想いがあります。彼らは自分のことを表現できる人たちですし、『ウチのクラブはこうだから、こうしなくてはいけない』というような、そんな小さな枠に囚われないでほしいですよね。指導者が全力を出すって結構難しいことなんですよ。あるいは出させるのも難しいことなんですけど、とにかく全力を出してほしいなと。『大我さんだったらどう考えるか』とか、そんなことはどうでもいいんです。さらにもう少しその上のフェーズを考えると、たとえば前嶋から育った選手はだいたいこういう選手に育つから、この段階でこういうエッセンスを加えれば、おそらくトップチームに行くだろうとか、それは逆でも良くて、中山が育てた選手を前嶋が見たらこうなるとか、土岐田が見た選手を中山が見たらおそらくこうなるだろうなとか、そういうことを調合するのが自分の役割だと思っています。まあ、手抜きと言えば手抜きなんですけど(笑)、去年1年間ゼルビアのアカデミーで働いてみて、今年への流れを考えた時に、今はこれが最適だろうなと感じました。その先はまた“一貫性”とか言っているかもしれないですけど、そんな時は私の頭を叩いてもらえると、元に戻ると思います(笑)」

 

‐‐コーチングスタッフの皆さんへの期待感は相当高いですよね。

菅澤「高いですね。メチャクチャ高いです。これ以上ないと思っているスタッフが揃っていますから。」

 

‐‐改めて今シーズンの抱負を伺いたいと思います。中山さん、お願いします。

中山「結果という部分で言うと、それはどこのカテゴリーでも勝利を目指して頑張るのが当然一番なんですけど、先ほどから菅澤も話している通り、ここにいるみんなはサッカーで見ている“画”に凄く似ているものがあって、同じものを最終的には目指している中で、いろいろな手法がそれぞれ違っていて、自分もそういう刺激を受けながら選手を育成できることは凄く良いことですよね。町田の子たちが『やっぱりゼルビアでしょ』というふうに目指す場所になっていったら素晴らしいですし、たとえば何も言わなくても入団待ちの選手が行列を作っているような、東京の中でも“人気アカデミー”のような形になっていければ凄く面白いなと。ゼルビアが菅澤を筆頭に『とにかくあそこに行けば選手が育つよ』というような組織になっていくようにしたいですね。ユースとしての目標はいろいろありますけど、そういったアカデミーになっていくための1つの力になっていければなと思っています。」

 

‐‐前嶋さん、お願いします。

前嶋「1人の指導者として、どのカテゴリーを見ているかということよりも、自分が持っているものをすべて出せるようにしたいなと考えています。京都(サンガF.C.)の時もユースの監督をやらせてもらいましたが、いろいろな環境があったり、コロナウイルスの影響もあったりする中で、大我さんがおっしゃったように、なかなかすべてを出すのは難しい経験もしてきました。その中でここへ呼んでくれた大我さんがこうやって言ってくれるような、これだけの素晴らしい環境は指導者にとってなかなかないので、どれだけ自分が持っているものを選手に伝えられるか、どれだけ自分と選手のイメージのギャップを埋められるかというのは、指導者としてやっていかないといけないことだと思います。あとはもう中山さんが言われたように、僕たちが試合をしている時に『ああ、このチームでサッカーやりたいな』と思ってもらえるような子が増えれば一番良いなと。そのためにも自分のすべてを出せるように頑張っていきたいです。」

 

‐‐最後に土岐田さん、お願いします。

土岐田「今年はジュニアの選手にとって、初めて上のカテゴリーに昇格できるか、できないかというジャッジがありますし、3年間見てきた選手たちなので、1人でも多く昇格させてあげたい気持ちは強いです。その進路のところをしっかり見てあげたいですね。あとは結果に囚われ過ぎることは良くないですけど、リーグ戦も今は一番下からのスタートで、東京の一番上のリーグに辿り着くにはまだ6つのカテゴリーがあって、去年は5年生たちで6年生主体のリーグに出させてもらいましたけど、昇格できなかったんです。今年も前期後期と上がれるチャンスがあるので、戦うリーグをまずは上げることと、大きな目標として全日本少年サッカー大会もあるので、大我さんからいつもプレッシャーを受けていますけど(笑)、近くにヴェルディという良いお手本がありますし、いつまでも彼らをお手本にしているだけではなくて、『いつか見てろよ』という想いがあって、それを超えられる日は近ければ近いほど良いですし、そういう大会である程度の結果を出して、ジュニアの認知度を上げたいです。」

 

‐‐このアカデミーコンテンツのタイトルは【未来】ということですが、ここからのアカデミーの未来が大友さんも楽しみなんじゃないですか?

大友「そうですね。子供は育つものではありますけど、皆さんに導いていただきたいなと。プロになる選手は一握りですし、ジュニアからジュニアユースに上がるのも、ジュニアユースからユースに上がるのもふるいがある中では、良き仲間になってもらえたらいいなと。たとえ1回ゼルビアを離れたとしても、どこかを経由してまた戻ってきてくれたらありがたいですし、そういった意味でもアカデミーの中で良き仲間を作ってほしいなと考えています。今は社員になってクラブに戻ってきたアカデミー出身者もいます。このメンバーであれば導いてくれると思っていますので、今日話を聞く中で改めて楽しみだなと感じましたし、パッとどこかのカテゴリーの練習を見に行ってみようかなと考えています(笑)」

 

●編集後記・・・

『未来』

 

FC町田ゼルビアのアカデミーを取り上げるこの新コンテンツは個人的にも絶対にやりたかった企画でした。

 

Q.なぜ???

A.アカデミーこそクラブの未来だと思っているから。

 

私自身、サッカーをプレーしてきた立場でもあり、以前は他のクラブではありますが、アカデミーに関わる役割もやらせていただいておりました。

そこで感じたのは、アカデミーの現場には様々なドラマがあり、そこで起きていることが、クラブの未来に繋がると思っているからです。

 

その初回に、大友社長をはじめ、新生FC町田ゼルビアアカデミーの主要メンバーが揃い、それぞれの想いを聞くことができました。

これまで積み上げてきた、歴史に。

また、新たな歴史を積み上げていきます。

 

『未来』

FC町田ゼルビアの未来を。

皆様と共に作り上げていければと想います。

(MACHIDiary 編集長より)