--今回は社長室の近藤さんにお話をお伺いします。近藤さんは入社が2012シーズンですから、早いものでもう10年戦士ですか。

「入社から10年が経ちましたから、今年は11シーズン目になりますね。」

 

--以前は広報部で現在は社長室所属とのことですが、現在はどんなお仕事をされているのですか?

「一言で言うと、大友健寿社長から特命を受けたことをやる部署ですね。もっと言うと、新規に取り組みたい事業とか、なにかテコ入れしたいことがあった際に、実行部隊として動いています。例えば昨年、社長から与えられたミッションは、主なものを挙げると、スクール生のゼルビスタ会員を増やすこと。クラブハウスがある地域の三輪緑山エリアに住む方のゼルビアファンを増やし、ファンクラブ会員を増やすこと。ゼルビアキッチンとゼルビアフットサルパークの売上を向上させること。さらには株主様の観戦者数を増やす。というものでした。何より昨年一番取り組んだのは、クラブハウスの建設ですね。設計業者さんや建築業者さんとのやり取りをさせてもらいました。」

 

--今年はいかがですか?

「今年も昨年の継続が多いですかね。一番は、クラブハウスが完成した三輪緑山地域の皆様にゼルビアをもっと応援してもらえるようにすることです。昨年から始めたバスツアーの実施や地域の皆様を対象にしたDAZN観戦会。また三輪緑山グラウンド開放デーなどをする予定です。ゼルビアキッチンやフットサルパークの経営管理も引き続き行います。新しいことで言えば、町田の中心市街地で、ゼルビアをもっともっと知ってもらう、試合の結果を知ってもらう、というミッションが加わりました。スタジアム周辺地域では、非常に多くの方に応援をしていただいていますが、町田のみならず、近隣地域の方が買い物などで集まる町田駅周辺では、ゼルビア感が少ないですよね。海外で言えば、繁華街では必ずと言っていいほど、パブや飲食店で試合の映像が流れています。それが町田でもできたら、という想いがあって、人通りの多いところで、パブリックビューイングというか、DAZN放映をしてサッカーに興味がない人にも、「今日試合やってるんだね!」と話題にしてもらえるようにしたいと考えています。さらには李漢宰クラブナビゲーターと少年サッカーチームを周るとか、そういうこともやれたらと考えています。昨年はスクールを一緒に周ったのですが、今年は地域のチームに顔を出したいなと。」

 

--非常に多岐に渡っていますから、頭の切り替えが難しそうですね。

「今、何を優先するんだっけ?と思うことはありますが(苦笑)、1つひとつがやりがいのある仕事だと思っているので、積極的に取り組んでいます。」

 

--こうしてクラブハウスが本格的に稼働する段階までこぎ着ける中で、近藤さんはどんな役割を果たされてきたのでしょうか。

「クラブハウス建設の部分で言うと、自分はそんなにやっていないです。大枠は今、京都サンガF.C.でご活躍されている加藤久さんが地元との交渉を進め、建設・設計の基礎を作ってくださいました。皆さん、あの日本サッカー殿堂入りの加藤さんがゼルビアにいらっしゃったのを知っていますか? 加藤さんのお力でこのプロジェクトが実現しました。私は加藤さんの退社に伴い、引き継いだのですが、具体的には地域の皆様との渉外です。このプロジェクト自体に、地元自治会などから構成される運営協議会という会議があるのですが、そこの議長をやらせてもらいました。そこではグラウンド工事・クラブハウス工事の進捗を地域の皆様に説明。工事の際に出る騒音の確認や工事関係者のトラックの出入りが多いので交通安全対策の確認など、住民の皆様の声を集め、改善するような仕事をしていました。天然芝グラウンドを運用するにあって、環境保全はできているのか? とか、屋根の反射で対面のマンションに影響は出ないか? など、いろいろと議論・説明をさせてもらいました。建物内で言えば、細かいところですが、トレーニングルームやマッサージルームのコンセント位置を考えたり、ドアを押し扉にするのか引き扉にするのか。当然予算も決まっているので、こちらから、コストを抑える提案などもしました。本当に細かいところですね。」

 

--いざ完成したクラブハウスを見た時の心境は?

「感無量の一言です。自分がゼルビアに来た当時は、イーグル建創さんのオフィスを間借りしていたくらいですから。最初、入社前の面接を受けたのも、ゼルビアのオフィスではなく、イーグル建創の下川社長(現・下川会長)の社長室でしたから(笑)。当然、選手が専用で使える施設もありませんでした。当時は小野路グラウンドを定期的に利用させていただいていましたが、シャワーだけでお風呂はなし。クールダウンは、選手は水桶や子ども用プールに入ってましたよね。それも一般の方に見られるグラウンドの脇で。ロッカーも一般の方が使うコインロッカー。マッサージルームや報道控室もきちんとしたものは、ありませんでした。2部練習でグラウンドが使えない時は、シャワーもない河川敷のグラウンドで練習をすることもありましたね。それこそ着替える場所がないため、初めてW杯に出場した時の日本代表選手だった相馬直樹監督(当時)が、車の中で着替えて練習をする時代です。2012年のJ2初年度の際は、元日本代表選手だった戸田和幸さんが寄贈してくれたストレッチポールで、選手が会議室の床でストレッチしていたんです。J1で活躍していた谷澤達也選手や李漢宰さん、韓国代表DFイ ガンジンやオランダ代表経験もあるキャラ(カルフィン ヨン ア ピン)も、そんな状態でした。そうそう、今や日本代表選手にもなった仲川輝人選手や畠中槙之輔選手も、この環境を経験しています。選手だけでなく、監督やスタッフもそうです。あのアルゼンチン代表のW杯優勝選手だったアルディレスさんもそういう環境下で指揮を執ってくださいましたよね。本当にここまで携わってくださった方々に対して、改めて感謝の気持ちが湧き出てきました。」

 

--クラブハウスの利用が始まって実際の使い心地はいかがですか?

「大友社長も「家が出来た感覚」と話していましたが、選手もスタッフも、そして我々職員も同じ屋根の下、身近にいますから、コミュニケーションも取りやすく、快適に仕事ができています。意思疎通をスムーズに図れることは大きいですね。それこそ、今までは選手は練習場にしかいないため、サインを書いてほしい時やイベントの打ち合わせをしたい際には、事務所から練習場に出かける必要性がありました。私は広報で現場にいたのでいいですが、他の社員は練習の終わり時間を見越して車で移動してくるんです。予想以上に練習が早く終わると、選手を捕まえられなかった! みたいなことも多々ありましたね。スケジュールが合わない場合は、練習で疲れているのに電話で調整もしていました。それが今では選手と話をしたい状況の時は、フリーの会議スペースですぐに打ち合わせができるなど選手とのコミュニケーションが円滑になりました。また、クラブスタッフ側でも昨年まではオフィスの部屋の広さが足りず、大友社長と李漢宰CN、そして私を含めた社長室の面々は、同じ建物ではあったのですが、フロアの違う部屋を使用しておりました。打ち合わせや簡単な話をするために部屋を移動すると、いなかった…。なんてこともありました。今は一つの部屋に全員がいるので、家のように快適です。」

 

--クラブハウス完成にあたって、一番ご苦労されたことは?

「選手に少しでも早く天然芝のグラウンド、そしてクラブハウスを使ってもらいたかったので、工期をどうやって早めるか、工期を遅らせないかという調整と、建築用語が分からなかったことですね。設計事務所(隈研吾建築都市設計事務所)の方や実際に建設されたナイス株式会社さんと細かい打ち合わせをする時は、自分はサッカークラブで働いているものの、「何屋さんだっけ?」と思うこともありました(苦笑)。それと、インターネット配線の工法とか、防犯カメラの仕組み、配管工事の仕方がどうとか、セキュリティーがどうとか、そういうのもそれぞれの業者さんのプレゼンを受けて決めるのですが、まあ、分からない…。親会社のサイバーエージェントの専門スタッフの方にアドバイスをもらいながら、ようやく決められた感じですね。ほんと、昨年1年間はサッカー用語が飛び交う世界ではないところで仕事をしてきました(笑)。コンセント1つを増やすには、いくらのコストが掛かるとか、床材をこれに変えると、どれくらい安くなるとか、外構工事でアスファルト1平米がいくらとか、草刈りを業者にお願いすると、いくら掛かるとか…本当にいろいろな経験できましたね。隈研吾さんは新国立競技場も建設されたため、ゼルビアはさぞお金を掛けていると思われているかもしれませんが、実際にはコンペを実施し、一番コストが安価な隈研吾さんの事務所にお願いする形になりました。いざ建設に向けて準備を進める中では、予算内で何ができるのか、何ができないのか。会社としてコスト管理は徹底されていたので、それぞれのプロの方と交渉する時は、本当に苦労しましたね。」

 

--建築用語はどんな勉強をされて身につけたのでしょうか。

「自分で言うのも変ですが、分からないことを分からないと言えるタイプです。分からない用語は現場監督に聞く姿勢は保つようにしていました。またありがたいことに新聞記者時代に他クラブや他競技のクラブハウスをいくつも見たことがあるため、もう少し広さがあった方が良いとか、コンセントはこの場所にあった方が良いとか、かつての経験が活きる場面は多かったです。例えば選手は松葉杖を使うケースもあるので、マッサージルームの扉は引き戸が良いとか、ある程度理解することができましたし、コストが掛かりますが、引き戸に変更するといった細かいこともやってきました。」

 

--手前味噌な話かもしれませんが、他のクラブハウスを知っている身として、ゼルビアのクラブハウスのセールスポイントは何でしょうか。

「やはり自然と調和したデザインではないでしょうか。スポーツクラブのクラブハウスは機能性を求めるあまり、華美な装飾もあったり、現地の雰囲気に馴染んでいないカラーがベースだったりすることがあります。ゼルビアのクラブハウスの屋根は木材を使っていますし、壁面は白ベース。三輪緑山という、自然の多い地域に溶け込んだものとなっています。これは建築家・隈研吾さんの方針が自然と調和したデザインにしたい、ということだったので、私がどうこう言ったわけではないですが、大きな特長だと思います。長くからそこにあるかのような、ヨーロッパの一流クラブではなくても、歴史あるクラブに遜色ないような、ずっとそこにあったかのような雰囲気があるかなと思います。建物自体も、中は開放感あふれる造りです。エントランスが真ん中にあって、選手もスタッフもそこを経由してそれぞれの部屋に行く。本当に交流がしやすいのは特長だと思います。」

 

--コロナ禍が収束し、ファンの方々が自由に来られるようになった時にどうなるか。それも楽しみの1つですね。

「制限も少なめですし、犬や猫にリールをつけている形ならば、ペットが入れるスペースも一部敷地内にはあります。これからの時期は桜並木がとてもきれいです。桜が満開になる時期には、地域の方々と桜が見られる特別な散策路を組むような調整も始めています。」

 

--クラブハウスができる前までは広報担当として、メディアとの取材対応などでご苦労はあったのでは?

「取材ルームもないですし、待機するスペースが共有するスペースでもあるため、一般の方にも話が聞こえてしまうような環境下でした。共用のロビーにて、立ち話で取材をする形でした。またクラブハウスがないため、選手たちはすぐに帰宅してしまうので、来ていただいたメディアの方に5人、6人の選手に話を聞いていただきたいのに、A選手を取材していたら、B選手が帰ってしまう…、そんなケースもありました。細かい部分ですが、チームの成績が芳しくない時期に、シビアな話をしているところを一般の方が通るなど、一般の方々も話を聞けるようなエリアで取材をする難しさはあったのかなと思います。上の原グラウンドでは部屋がないため、雨の日は体が濡れたまま、雨をしのぎながら取材対応をするケースもありました。今振り返ると、選手たちはよくそんな状況でも対応してくれたと思います。」

 

--メディアの立場からすると、聞きたい選手を取り逃がすことがないように、近藤さんが選手を引き止めて、雑談でもしながら、時間を繋いでくれるフットワークの軽さには助けられてきました。小野路や上の原を利用させていただいている時期に、今だから話せるようなエピソードはありますか?

「言っていいのかな。パンツ一丁で建物内を行き来することは禁止されているのに、たまにそれを忘れて破ってしまう選手がいたり…(苦笑)。あとは自分の誕生日の時に練習後、選手やコーチングスタッフの前で挨拶をして、祝福の水を掛けてもらったりしたことがありましたね。誕生日の前日にスタッフから「明日はジャージで来て」と言われたので、「何かな…」と思ったら、そんなこともありました。個人的なエピソードで恐縮ですが、クラブスタッフにもそのような気遣いをしてもらえたことはとてもうれしかったです。」

 

--そもそも近藤さんがゼルビアに入社するきっかけは何だったのですか?

「スポーツ新聞やWebサイトでサッカー記者をしていましたが、もともとは、いつかはサッカークラブで働きたいという願望がありました。記者として取材をしてきた縁の中から、ありがたいことにゼルビアに広報スタッフとして入社するお声掛けをいただき、今の自分があります。」

 

--なぜサッカークラブで働きたいと思ったのでしょうか。

「もともとサッカーを見ることが好きで、それこそ、ドーハの悲劇の頃から夢中になって見始めたミーハーです(笑)。大学では静岡にキャンパスがある大学に通い、サッカーサークルに入ったことでサッカーを楽しむようにもなりました。就職活動をするにあたって、サッカーに携わる仕事がしたい、と考えた中、どんな仕事をすれば、サッカーに関われるか、紙に書き出してみたんです。「選手」「クラブスタッフ」「スポーツショップ勤務でサッカーの売り場につく」「メディア関係」「土日休みの仕事に就いて、お父さんコーチになる」…。そういったことを5,6個くらい書いたでしょうか。その中でさらに優先順位をつけて。選手は当然、冗談です(笑)。1位がクラブのスタッフになって、2位がサッカーライター。上から目指しましたね。しかし当時はサッカークラブの求人情報はそんなに出回っていなかったため、サッカーライターを目指すことにしました。マスコミ系の専門学校を経て、サンケイスポーツに入れて、サッカーを取材する立場になれたわけです。それでも十分満足のいく人生だったのですが、いつからか大学生時代の想い、クラブの職員をやってみたいというのが蘇り、ゼルビアにご縁をいただいたというわけです。」

 

--入社前のゼルビアはどう見えていましたか?

「東京に3つ目のJリーグクラブができるということで、周りの知り合いやライターさんが発信するゼルビア情報を見て、気になるクラブだなと思っていました。記者という仕事柄、ゼルビアを調べるうちに、町田は清水にも負けないサッカーどころで、少年のカテゴリーを出発点として、大企業を母体に持たず、地域に根ざしたサッカークラブができあがった例は、Jリーグではなかったですし、オリジナリティーがあるクラブだったため、本当に注目していたんです。そして、JFLのころから当時いた編集部にお願いして取材をさせてもらって、記事にさせてもらったりして、応援をしていました。」

 

--なるほど。以前から注目されていたのですね。

「2010年のスタジアム問題でJリーグ参入を断念する記者会見も取材しましたし、「まだ何も終わっちゃいない」の横断幕をサポーターの方々が掲げた東京ヴェルディとの天皇杯も現地で取材しています。相馬元監督は、フランスW杯に出場した選手で初めて監督として指揮を執る方だったので、Webサイトの記者時代にショートインタビューもしていました。何かと縁がありました。」

 

--大学のサークル以外でサッカーはされてきたのですか。

「やってきたというのが恥ずかしいレベルです。生まれは男子小学生が8人しかいないような過疎地だったので、夏は野球、冬はサッカー、夜は剣道をやる。そんな地域で育ってきました。いわゆるスポーツ少年団ですね。分かりますか? 中・高はサッカーをやっていなかったのですが、大学では友達の誘いもあり、サッカーサークルを作りました。自分はどちらかと言うと、連絡係やグラウンドを予約する、大会に登録する、懇親会を企画する、といった運営側に回っていました。試合では足を引っ張るタイプでしたね(苦笑)。」

 

--それなのに、新聞記者時代は、選手の論評などをやってきたと。

「自分はできないのに(苦笑)ですよね。でも、担当した選手たちが素晴らしかったので、見る目は養えたと思います。古くは2006年のドイツW杯メンバー、中田英寿さんや中村俊輔選手、そして、小野伸二選手や小笠原満男選手らの黄金世代も間近で取材しましたし、オランダでのワールドユースに参戦した北京五輪世代の本田圭佑選手、長友佑都選手たちを取材してきました。水本裕貴選手は20歳くらいの頃から知っていたので、そういった選手と2年間、同じクラブで携われたことは感慨深かったです。」

 

--広報時代、J3では珍しいアウェイ遠征に帯同することも多かったです。

「そうですね。当時、現場スタッフの要望もありましたね。上を目指すなら、取材とか、会見とか、そういうのもしっかりとJ1、J2の基準で取材対応もしてほしい。というような声がありましたので。アウェイ遠征に帯同していたからこそ、選手とより同じ気持ちになり、円滑なコミュニケーションを図れたと思います。調子が悪い時の取材対応やホームタウン活動は、選手としては精神的につらいと思うことがあります。でも、「コンさんが言うならやるよ」と言ってもらい、インタビューに応じてもらったり、イベントに参加してもらったこともあります。向き合う時間が長かったからこそ、一番文句や注文を言われる立場でしたが、リクエストに応えてもらっていました。同じ時間を共有できたことがプラスに働いていたと思います。」

 

--印象に残っている試合は?

「2015年のJ3最終節、長野での“ぬか喜び”の試合です。あとは大分に2人少ない9人の状況で大善戦をした18年のアウェイゲームでしょうか。あの時、相馬監督が監督室で感極まっていたことを思い出します。試合後のインタビューがあるため、相馬監督を呼びに行こうと監督室に向かうと、スタッフから「呼びにいくのをやめたほうがいい」と止められる中で、部屋に入っていってお願いをするという役回りでした。相馬監督には「この目のままで、オレを出すの?」と言われましたね…。余談ですが、相馬監督の話の延長でうれしかったのは『日本代表を、生きる。 「6月の軌跡」の20年後を追って』という初めてW杯に出場した選手たちの話をまとめた、増島みどりさんが書かれた本に自分の名前が載ったことです。」

 

--大分戦は「こいつら、すごいです」と相馬監督が話した伝説のインタビューですね。

「そうです。皆さんも、きっと相馬監督の涙腺が緩んでいたことは気づかれましたよね?監督室に声をかける際の緊張感は、まあ半端なかったです。今思うと、よく入っていけたなと思います。ほかに印象に残っている試合を挙げるとすれば、初めてJ2から降格した時の12年の湘南戦の試合後とか。大雨の中、主将の勝又慶典選手が挨拶できずに、代わりに田代真一選手が挨拶をしたり。これは試合のオペレーションですが、初めてJ2から降格するクラブだったため、ミックスゾーンでは当時の下川浩之社長、唐井直GMがメディア対応をするように取り計らったりしたことも記憶に残っています。本来、2人もやらなくて良かったかもしれませんが、「こういうときだからきちんとメディア対応しましょう!」と話したことを覚えています」

 

--今はコロナ禍で難しいですが、一度チームバスに乗り込んでしまった選手でどうしても聞きたい選手は、中から引っ張り出してメディア対応をしてくださるなど、いろいろとご配慮いただくこともありました。

「選手の中には結果が悪いときなどは、「取材されないから、取材エリアを通らなくても良い?」と言ってくる選手もいましたが、「プロは取材を受け、ファンに想いを伝えるまでが仕事。それに、取材エリアは選ばれた選手しか通れない。メンバー外になると通ることすらできないんだから」と説き伏せて通すこともありました。酒井良さんなんて、メンバーに入っていないのに、わざわざミックスゾーンを通ったりしていましたよね。」

 

--「あれ? オレ取材ないの?」って、通り過ぎていくのがパターンでした(笑)。

「良さんには、「良さん、今日試合出ていないです」と冗談っぽく返していましたが、実はあの良さんの姿にはこみ上げるものがありました。良さんの姿を見ると、なおさら他の選手には、その重みを知ってほしいと思っていましたから、取材を嫌がる選手には、どんなことでも良いから、自分の言葉でしっかり対応するように、と話していましたね。避けるのは絶対ダメだと。」

 

--近藤さんにとって、ファン、サポーターの方々はどんな存在ですか?

「言葉では表せないような存在です。ファン、サポーターの皆様の存在がいないと私たちの仕事は成り立たないですし、頑張れないと思います。立場は違いますが、チームの勝利を支えていくという意味では同志なのかなと思います。」

 

--広報時代には、サポーターの方々と練習場で接する機会も多く、関係性を構築する立場でもありました。

「そうですね。ファンサービスゾーンの担当もしていましたからね。サインを貰いやすいようにサポートしたり、カメラのシャッターを押したり。マッサージで出てくるのが遅い選手のことは、おおよその戻り時間を教えてあげたり、たくさんコミュニケーションを取らせてもらっていました。近い距離感で接してきたことで関係性を築けた部分があると思います。自分の誕生日だけではなく、娘の誕生日にまで、お菓子の差し入れをしてくださる方もいましたからね。あ、そうだ。忘年会に呼ばれ、その席上で一緒にカラオケを歌うなんてこともありました。本当にありがたい限りです。」

 

--サポーターの方が“近藤ゲーフラ”を作ってくださったこともありました。

「あれには驚きましたね。よく練習場に来られる方で、選手のファンサービスの対応で、よくお話をしていました。差し入れをもらったり、いろいろと良くしてくださっていた方なのですが、そういう中で、ゲーフラを作っていただきました。自分のやってきたことが認められているんだなと嬉しくなりましたね。」

 

--今後ゼルビアはどのような形で発展していくのでしょうか。

「J1クラブとして、そしてスローガンとして掲げている町田を世界へ!を体現すべく、発展していくと思っています。いや、そこまで発展させないといけないですよね。一方でただ大きなクラブになるだけでなく、東京の町田で活動をするオンリーワンの価値観・存在感を放つクラブにしなければいけないと、そう思っています。」

 

--やはり、J1の景色を見たいですよね。

「はい。今年はクラブとして掲げた3カ年計画の3年目です。今季J2で優勝してJ1へ昇格するぞ、という強い想いが必要だと思います。優勝する! と思っていないと、優勝はもちろん、昇格もできないと思います。新聞記者をやっていた経験上、そういう強い想いを、チーム・社員・サポーター・スポンサー・地域のみんなが持っているクラブが目標を成し遂げていますね。ゼルビアも、そういうクラブになってJ1に行きたいです。」

 

--サポーターの方々もそうですが、長らくクラブに在籍している深津康太選手、中島裕希選手らと一緒にJ1の舞台へという想いは強いですか。

「そうですね。もちろん、彼らだけではなく、今所属している全選手・スタッフと昇格したいです。ただ先ほど名前が出たような、深津選手、中島選手、奥山政幸選手、そして18歳の頃から知っている三鬼海選手など、苦楽を共にしてきたメンバーに引っ張ってもらってJ1に行きたいという想いは強いです。また、ランコ・ポポヴィッチ監督とは記者の立場として取材をさせてもらっていましたし、一緒にJ1へ行けるようにサポートしていきたいです。」

 

--近藤さんは今後、ゼルビアとどう関わっていくのでしょうか。

「言い方は難しいですが、今はマーケティングや営業、広報といった業務とはまた少し違う角度の役割をもらっています。既存の事業に、プラスワンをもたらし、クラブの発展に貢献する役割かなと感じています。縁の下の力持ちというか、後方から、側方から、プラスワンの業務ができれば、クラブの発展に繋がると思うので、それをやりきりたいですね。自分ももう、常勤の社員では上から3番目の年齢になりましたから、クラブ全体を支えていけるようにしたいです。」

 

--最後に近藤さんにとって、FC町田ゼルビアとは。

「うーん、これは難しいですね。一言や二言では語れないです。言葉にすると、なんか軽くなってしまいそう。本当に『言葉にはできない存在』ですね。それぐらい自分にとっては大きな存在です。」

 

●編集後記・・・

ファン・サポーターから絶大な人気と知名度を誇る近藤さん。

誰からでも愛されるキャラクターはフロントスタッフの中でも、ひと際輝く存在であり、そしてとても頼りになる存在です。

 

そして、クラブへの愛情を深く注ぎ続ける近藤さんにとっても、クラブハウスの完成は言葉に表せないほど嬉しかったと思います。

 

あまり、大変そうなそぶりを見せない近藤さん。

日頃から細かいところまで気を配る近藤さんだからこそ、クラブハウス建設においても、地域住民の皆様との調整や社内の調整をスムーズに行えたと思います。

 

J1昇格に向けて。

これからも縁の下の力持ちとしてクラブを力強く支える近藤さん。

試合会場で見かけたら、ぜひお声がけください。

満面の笑みで答えてくれるはずです。

(MACHIDiary 編集長より)