--今回は今年でプロ生活20年目を迎えた中島裕希選手にお話をお伺いします。念願だったクラブハウスの環境はいかがですか。

中島「何不自由なく、最高の環境で好きなサッカーができていることを幸せに感じています。」

 

--以前、川崎フロンターレのクラブハウスが新しくなった時期に、現地でトレーニングマッチをした際、「こういったものが町田にもできると良いな」というお話をされていました。

中島「比べるものではないですが、最初に入った時は、海外サッカーのドキュメンタリーに出てくるような、海外の強豪クラブのクラブハウスに思えました。最初に思わず「レアル・マドリーやん!」と言ってしまいました(笑)。」

 

--クラブハウスはそんなにすごいんですか!ちなみに今年でプロ生活20年目。とても長いプロキャリアを積み重ねています。

中島「おかげさまでそうなんです。大きな怪我もなく、ここまで良い形でコンディションを上げてきています。ただチームとしては、新加入選手ともっと連係を合わせることも必要ですし、最後のクオリティーの部分はまだまだ伸ばせると思います。開幕まで時間もあるので、しっかりと全員で良い準備をして開幕戦に臨めるようにしたいです。」

 

--今年が節目の年であることを、知るきっかけはあったのでしょうか。

中島「李漢宰さんがプロ20年で現役を退き、その時の年齢が38歳でした。僕も高卒(富山第一高校)でプロに入っているため、それで気付きました。あとはヤザ(谷澤達也)が19年目で引退をしたということで、僕が1年現役をやるということは、20年目に到達するんだなと思った次第です。周りの知っている人たちの関係で知ることになりました。」

 

--心境としてはいかがですか?

中島「特に変わらないですね。いつも通り、プロ20年目を意識することは全然ないです。」

 

--ここからは時計の針を戻しまして…。鹿島アントラーズでのルーキーイヤーはいかがでしたか?

中島「ほとんどが代表選手だったので、TVで見てきたような選手ばかりでした。TVで見てきた方々と一緒にプレーする緊張感もあったため、付いていくのに必死だったことを覚えています。」

 

--中でも一番、この方とプレーするのか! と思った選手は?

中島「柳沢敦さんです。高校の大先輩ですし、とても憧れている存在でした。その年にイタリアへ行ってしまったので、同じチームでプレーできたのは3カ月ぐらい。一緒にプレーできて、感動しました。」

 

--そのほか、1年目で覚えていることは?

中島「練習からガムシャラに頑張って、考えることすらできていませんでした。正直、あまり覚えていません。」

 

--次の所属先であるベガルタ仙台では計6シーズン、プレーしました。仙台での時間はいかがでしたか。

中島「2009年に優勝して、J1に昇格したこともそうですし、東日本大震災があったことなど、いろいろな思い出はありますが、震災の時はいろいろと考えさせられることが多かったです。今、サッカーができていることが幸せで、当たり前ではないと感じています。」

 

--震災が起きた時のことを思い出していただくと…。

中島「僕が住んでいた地域に津波が来ることはなかったですが、津波の映像を見ると、まるで映画でしか見たことがないような世界でした。これがすぐそこで起きているのかと…。これから僕たちは、サッカーはどうなってしまうんだろうという不安な気持ちに襲われました。また家族のことも気がかりでした。ペットも飼っていましたし、震災が起きた時は外出していたため、家族とモコちゃん(愛犬)は大丈夫かな…とすごく心配になりました。」

 

--震災でリーグも中断されて、等々力での川崎フロンターレ戦が再開初戦だったと思います。その試合でピッチに立てた時、どんな感情だったのでしょうか。

中島「試合ができる喜びもありましたが、当時はチームだけではなく、仙台の街全体が一体になっていました。自分たちの試合で仙台の方々へ勇気や希望を与えるという使命感や責任が僕たちにはあったので、チームとしての一体感も自然と持てました。太田吉彰さんのゴールも普段であれば入るようなシーンではなかったと思います。あまり強いシュートではなく、倒れながら流し込むような形で入ったのは、何か見えない力が働いていたのかなと思いました。まさに神秘的な状況でした。あのゴールも皆で喜び合い、とても思い出に残っています。」

 

--中島選手は町田に来てからも、常々意思の強さが結果を手繰り寄せるという話をされてきましたが、それは仙台の時の体験が影響しているのでしょうか。

中島「想いはとても大事であることを感じるきっかけにはなりました。今に繋がっていると思います。」

 

--鹿島と仙台。それぞれJ1でのプレーに違いはありましたか。

中島「決めるか決めないか。ゴール前で決めさせないこと。そういった最後の部分のクオリティーは全然違いました。スピード感や判断の速さも違いましたね。」

 

--山形ではプレーオフを勝ち進んだ末に、J1昇格を果たしました。

中島「あの時もチームの雰囲気はすごく良かったですよ。想いが乗り移ったというか。とても印象に残っています。山形の街全体も盛り上がっていましたし、とてもうれしかったです。」

 

--当時の想いの強さの象徴が山岸範宏さんのゴールでしょうか。

中島「もう奇跡ですね。ゴールの瞬間、僕はピッチに立っていました。CKではニアサイドに入っていく形が多いですが、僕よりも前にギシさんがいて、「ギシさんのところに来た!」と思って、ギシさんが頭に当てた瞬間に自分の前をボールがフワーっとスローモーションで通り過ぎ、ゴールに入った時は鳥肌が立ちました。普段は試合のことをあまり覚えていないのですが、あのゴールは鮮明に覚えているシーンの1つです。」

 

--ゼルビアに来たのは2016年。ゼルビアがJ2に復帰したタイミングでトライアウトを経ての加入となりました。

中島「自分を必要としてくれるクラブに行きたいと思っていました。当時の相馬直樹監督と丸山竜平強化部長と話をする中で、自分を必要としてくれていることを感じました。ゼルビアで自分の力を出して、チームに貢献しようと、加入を決めました。」

 

--1年目はキャリアハイの14ゴールを記録しました。その要因は?

中島「周りの選手のおかげでもあります。2016年は個性の強い選手が集まっているチームでした。みんなで点を取れたシーズンでしたし、非常に楽しかったです。また個人としての「やってやろう!」という強い気持ちも、ゴール数に繋がったのかなと思います。」

 

--やはり中島裕希選手と鈴木孝司選手が形成した2トップを抜きにして、当時を語れません。クラブ史に名を刻む名コンビだったと思います。

中島「お互いに点を取れて、点を取らせることもできる関係性でした。相手からすれば、怖い存在でもあったと思います。孝司はやりやすい選手の1人でした。言葉を交わすことはなくても、何をしたいか分かり合えることが良い相方の条件に入る中で、お互いに何をしたいか分かり合えていました。もともと孝司は能力の高い選手ですし、最初からぎこちなさもなかったです。お互いにFWの1人が前に行けば、1人が降りるとか、そういうコンビネーションを言葉にしなくとも、自然とできていました。孝司は攻撃センスもありましたし、僕も動いてプレーすることが好きだったので、最初から相性の良さがあったのかもしれません。」

 

--当時は練習環境やクラブの規模感も違ったと思います。

中島「懐かしいですね。たまに恋しくなります。個人として洗濯が好きだったので、自分で洗濯することも苦ではなかったです。ピッチは人工芝でクラブハウスもなかったですが、僕はそこまで環境に対して、ビックリすることもなかったですね。すんなり入れました。もう仕方がないものだと割り切って、抵抗もなかったです。」

 

--その一方で環境を変えたい意思も芽生えてきたと。

中島「僕が加入した当時からクラブハウスが出来るという話は出ていました。丸山さんもそれを餌に僕を口説いたと言ってくるぐらいで(苦笑)。結局完成まで7年の時が掛かったわけですが(苦笑)、選手たちは勝つことでしか評価されない世界にいます。勝たないと人も付いてこないです。同じ方向を向いて結果を残さないと、僕たちは何も得られないということを痛感しました。」

 

--結果で環境を変えることを追求する中で、クラブは2018年にサイバーエージェントグループ入りをし、クラブ史上最高順位の4位も記録しています。

中島「負ける気がしないというか、1点を取られても妙に落ち着いていました。先に1点を取ると、このまま勝てるんじゃないかと思えるほど、メンタル面も充実していました。また、目の前の1試合1試合に想いを乗せて、自分たちの力をうまく発揮できていました。」

 

--そのメンタルの根源は何だったのでしょうか。

中島「勝っていたというサイクルも良い影響を与えていたと思います。1日1日積み重ねていく中で、人工芝でも厳しいトレーニングを積み上げてきました。選手たちも迷いなく、できていたことも強みでした。」

 

--18年はシーズン12得点。個人という意味での18年はいかがでしたか。

中島「満足はしていなかったですし、もっと点を取れる場面がありました。最終節に勝っていれば優勝だったので、悔しい結果になりました。あのような大事な試合でゴールを決めて、チームを勝たせる選手になりたいなと常に思っています。大事な試合で取れなかった悔しさが残っています。」

 

--決められる選手になるという宿題が残ったと。

中島「それはもう、永遠のテーマです。」

 

--19年は一方で残留争いを強いられる苦しいシーズンになりました。

中島「個人としても点を取れなかったシーズンでした(計3点)。自分たちがやっているサッカーに戸惑う部分もあるなど、自信を持てないシーズンになりました。原因は難しいですね…。良いシーズンばかりではないですし、その中でも踏ん張って残留できたことは大きかったです。あそこでJ3に降格していたら、今の町田はどうなっていたんだろうと考えさせられます。本当に残留できて良かったです。」

 

--20シーズンにはポポヴィッチ体制に移行しました。

中島「攻撃も守備も前線の選手に対する要求は高いものがありましたし、監督のやりたいサッカーをやるためには前線の選手の運動量や、やるべきことはたくさんあるので、やりがいはあります。その一方で難しい部分はありましたが、頭で考えながらやっていた部分もあるなど、ポポヴィッチ監督のやりたいサッカーにフィットできずに点も取れず、苦しいシーズンになりました。」

 

--次のシーズンである21年は、コンスタントに試合に出場しました。

中島「このままでは試合にも出られないと感じたので、もっと必死に、試合に出るためには何をしたら良いかを考えて実践できたことが良い方向に向かったと思います。第2節のジュビロ磐田戦で試合に出て点も取れました。1年1年が勝負の中で、悔いなくやろうとした結果でもありました。」

 

--昨季はチームとして5位という好成績を残せた要因は?

中島「ポポヴィッチ監督のサッカーを1年間表現することで土台が出来ました。プラスα、自分たちの良さも出せるようになりました。連係も噛み合って、たくさんの点を取れたことが順位にも繋がっていると思います。積み上げてきたものを表現できたシーズンだったと思います。」

 

--21年は個人として、J2通算100ゴールというメモリアルも達成しました。

中島「達成した時はチームが勝てたこともあってうれしかったです(第5節のヴァンフォーレ甲府戦)。でも昨年中にJ2通算ゴール数1位の大黒将志さんの得点数(108得点)を抜けなかったので、悔しさも残っています」

 

--3カ年計画最終年のシーズンである今季は、どんな気持ちで臨んでいるのでしょうか。

中島「目標はJ2優勝です。クラブハウスも出来て、言い訳ができない状況にいる中で、昨年のサッカーを最低ラインとして、そこに上積み出来るようにチームとしてやっていきたいです。優勝するためには、二桁得点を取らないと優勝できないと思っているので、個人では二桁得点を取って、全員で笑っているイメージを作り、1日1日、1試合1試合を積み重ねていけるように、チームの皆で頑張っていきたいです。」

 

--J2優勝を目標に掲げている理由は?

中島「やっぱり優勝したいです。J2の王者として、J1にチャレンジしたいという想いが強いです。」

 

--仙台では優勝での昇格。山形ではプレーオフの末の昇格と、その両方を経験している中島選手ならではの想いと言えるかもしれません。

中島「J2トップの力をJ1で表現できるように、そんな次に繋がるシーズンにしていきたいです。ゼルビアは一体感を大事にしているチームですし、まとまりのあるチームとして勝負したいです。」

 

--キャンプでのトレーニングマッチを経て、現状のチームの手応えは?

中島「良い時は良いですが、守備の修正点はあると思います。JFLのチームを相手にあれだけシュートチャンスを作られてはいけないです。また自分も前線でチャンスがあったので、決めないと試合には勝てないです。ただ決められなかった分も、課題が残ったことでまだまだ成長できる部分があると思います。今日よりも明日と、常に成長していけるようにやっていきたいです。」

 

--J1に上がるために大事にしたいことは?

中島「ピッチ上のことも大事ですが、チーム、フロント、クラブスタッフ、地域の皆様、ファンやサポーターが1つになって同じ方向を向いて行動をすることが、町田の未来に繋がっていきます。僕たち現場の人間は結果を追い求めていきます。今季は昨季よりも勝つことにこだわって、勝ち点を積み重ねていきたいです。」

 

--やはり満員のスタジアムも昇格の後押しになりますか。

中島「たくさん入ると雰囲気も違いますし、たくさんのサポーターの皆様と戦いたいです。今は声を出せない状況ですが、皆様の想いは伝わってきます。自分たちが勝つことでお客さんは入ってくれると思うので、もっと入っていただくためにも結果を追求したいです。せめて9,000人の皆様と 天空の城 野津田 で戦いたいと思うので、ぜひみなさんのお友達や家族。どなたか一人ずつ声をかけていただき、スタジアムを青く染めてほしいです。そして共闘して下さい。」

 

--中島裕希選手にとって、FC町田ゼルビアとは?

中島「生きがいであり、やりがいです。ゼルビアと一緒に成長してきた部分もありますし、自分たちで環境を変えてきたという自負もあります。ゼルビアで、J2優勝を果たし、J1へ行きたい。そんな想いが強いです。」

 

--長く応援して下さっている方は特に、深津康太選手、中島裕希選手とJ1を戦いたいという想いが強いです。そういう話を聞いて、当事者としてはどんなお気持ちでしょうか。

中島「皆で行きましょう! J1の舞台へ。環境は整ったので、あとは行くだけです。J1に行けばサポーターの数や応援して下さる方々の数も変わってくるでしょう。勝つことで得られるものはたくさんある。強くそう思います。」

 

--18年に果たせなかった約束。中島選手のゴールでJ1へ連れて行って下さい! そんなことになれば、ファンやサポーターの皆様は泣いてしまいます。

中島「自分も泣いてしまうかもしれません。」

 

--15年の“ぬか喜び”の時に、深津康太選手が泣いた姿を見たことはありますが、中島選手の涙は見たことがないですね。

中島「まだないですね。康太はそうだったんだ…。試合で泣くことはほとんどありませんが、ハンさんの引退の時は相当ヤバかったですね。」

 

--李漢宰クラブナビゲーターの引退の時は、漢宰CNに意識が行き過ぎるあまり、感極まっている中島選手の姿を確認することはできませんでした…。

中島「そうですよね。たださすがに自分が引退する時は、泣いてしまうと思います。」

 

--まだまだそれは先の話でしょう。またその時が来たらお話を聞かせて下さい。今日はありがとうございました。連れて行って下さい。J1。

中島「行きましょう!皆で、J1へ!!」

 

●編集後記・・・

「想いはとても大事」

「自分たちで環境を変えてきたという自負」

 

熱い想いを胸に秘めている中島選手。

言葉の端々から『開拓者・先駆者』として

自らが先頭に立ち、道を切り開こう!切り開いてきた!

という、強い意志を感じました。

 

普段は明るく、ふざけたことをして若い選手ともコミュニケーションをとっておりますが、誰よりも自身と向き合い、クラブのことを考え、ここまで走り抜けてきた中島選手。

 

プロ20周年目という記念すべきシーズンをFC町田ゼルビアで一緒に闘えることは、私達にとってもとても誇れることであり、嬉しいことでもあると思います。

 

今年もクラブの先頭を走る『ゆうき』と共にJ1へ。

(MACHIDiary 編集長より)