-今回は大友健寿社長と竹中穣前ユース監督との対談です。まずはお二人の第一印象についてですが、どうでしたか?

竹中「大友社長との初対面は、当時の練習場である小山グラウンドだったと思います。練習前のミーティングで会ったのが最初です。その後よく覚えている出来事は、どこかへ練習試合に行った時に選手全員と面接をしたのですが、大友社長が選手を続けるかどうかの意思確認を学校の片隅でした記憶があります。「どうするの?」と聞いたら、「迷っている」と言っていたので、「やろうぜ!」と声を掛けたと記憶しています。」

大友「あれは2004年の出来事になるのかな…。確かにグラウンドの小屋で話したことは思い出に残っています。その頃の私は、サラリーマンをしながらサッカーをやっているアマチュアの立場であるにも関わらず、監督の守屋さんに「もうここではサッカーはやらない!」と啖呵を切り、3カ月ほど練習にも試合にも参加しない時期がありました。でもしばらく経つとサッカーをやらないことが寂しくなり、守屋さんに謝りもせずに、しれーっとある日の練習に参加しました。そこに竹さんがいました。竹さんのことは町田のサッカーフェスティバルで先輩として存じ上げていましたし、竹さんがゼルビアで仕事をするのであれば、自分も続けようと決心しました。」

 

--竹さんの存在が大友社長の現役続行の背中を押したと。

大友「ちゃんとやってくれる人が来た、チームが変わるだろうからと、続けることを決意しました。」

竹中「守屋さんとそんなことがあったんですね。謝る気はないなんて強気ですね。」

 

大友「しれーっとベンチに座っていたら、そこは守屋さんの教育者としての懐の深さでしょうか。「お!来たか!?」と自分の方を見て、その後はその場をやり過ごしてくれました。復帰するまでに参加した最後の活動は、試合で途中交代させられたことに腹を立てて、試合会場から帰りましたから。もう酷いもんですよ(苦笑)。その時は「サッカー解ってんのかよ」という捨てゼリフを吐いてその場を去りました。今だから笑って話せる話題ですが…。」

竹中「この話、文字にできないでしょ(苦笑)」

 

大友「だからあの時、竹さんがいたことは、間違いなくターニングポイントでした。」

 

--そんな2人の出会いだったようですが、竹中さんは先日、ラインメール青森のトップチームのヘッドコーチに就任することが発表されました。大変ビックリしたニュースですが、残念なことにゼルビアを離れます。

竹中「これまではユースの監督をやらせていただいたため、トップチームの指導はゼルビアでトップチームのコーチを務めていた12年以来となります。時間が空いているので、不安はありつつも、新しい土地に行って、全く違う選手たちとサッカーができるという喜びや自分への期待はとても大きいです。」

 

--自分のキャリア形成も含めてのご決断だと思いますが、長年携わってきたゼルビアから離れることの寂しさはいかがですか?

竹中「このクラブで成長させていただいた立場としては、クラブの移り変わりに喜びを感じています。またここまで紆余曲折はありましたが、引き続き、このクラブは左から右に大きく上がっている成長曲線を描いていくと思います。プロクラブを創ろうと話してきた中で、今、こうして町田にプロサッカークラブがあることはある種の驚きでもあります。携わってきた身として、そういった感情に包まれています。」

大友「話を聞いた時は、当たり前のようにずっと一緒にいたので、最初は驚きましたが、プロとしてフラットにその時の役割をやってきた方だったため、離れる選択をいつかはするだろうという想いはありました。竹さんも酒井良もそうですが、ずっと町田で良いのかな…という葛藤はありました。信頼できる人が1人いなくなることの寂しさはありますが、プロとしては当然の選択だよねと思う部分はあります。引き止められるものでもないですが、決断を尊重したいです。これは語弊がある言い方になるかもしれませんが、トップチームを指導している竹さんを見てみたいですよ。」

 

--大友社長も名前を出されましたが、同じタイミングで酒井良さんもクラブを離れることにどこか運命のようなものを感じます。

竹中「応援してくれた方々に対して、バッドタイミングだとは思っています。ただ日々の業務を精一杯やるというのが当たり前になっている中で、もう僕らにできることはないんですよ。それほどクラブが発展したということの表れでもあると思います。酒井に聞いたことはないですが、このままいくと、クラブに必要とされない人間になる可能性があるんですよ。そうした恐れとはまた違いますが、ゼルビアがさらに大きなクラブになった時に、必要とされる力を今のままではつけられないと思いました。その中でこうした決断をしましたが、酒井とクラブを去るタイミングが偶然にも重なったということは、ご理解いただけると幸いです。」

 

--退路を断ち、いつの日かまた、ゼルビアに自分の力が必要とされる指導者となるために、外の世界で勝負をしようということですね。その一方で竹中さんと酒井さんがクラブを去るということは、ゼルビアがゼルビアでなくなると言っては大袈裟ですが、そういった一種の喪失感も拭えません。

竹中「そう言っていただけることは非常に嬉しいです。一方で、僕と酒井が現役を引退してから、かなり時間も経つので僕や酒井の存在を知っている方が、少なくなってきてもいるのかなと思います…。」

 

大友「お話のように、竹さんと酒井の2人がいることが、ゼルビアがゼルビアであるためには必要なことだと思ってきました。ただそうした想いが彼らを引き止めている、縛り付けているんじゃないかなという葛藤も僕の立場としてはあります。離れることは寂しいですが、ここまで、2人にしかできないことをやっていただいていたので、とても感謝しています。いつの日かJ1に昇格し、定着した頃にまた2人のことを考えたいと思っています。絶対に面白いことができるので。」

 

--竹中さんは青森でどんな仕事をされるのですか?

竹中「ヘッドコーチという立場であるため、第一の仕事は監督をサポートしていくことです。選手たちと向き合うことにはなりますが、その裏には選手たちの家族の存在があります。ゼルビアでユースを指導している時もそうでしたが、実際のピッチだけではなく、その

先の選手の家族にも繋がっていくということを大事にしてきたスタンスは変えずにやっていきたいと思っています。また青森はJリーグ参入が目標のクラブなので、そのためには何でもやります。」

大友「期限付き移籍で青木選手も行くので、是非、彼の成長の手助けもしてもらいたいです。」

 

竹中「僕のことなんて、言うこと聞かないと思いますよ(笑)。ユース当時に指導を受けていたことを思い出して、「ヤベエな」と思っているのでは?(苦笑)」

 

--大友社長はユースで指導する竹中さんをどのように見ていましたか?

大友「直接ユースで指導する現場を見る機会は限られてきましたが、自分が現役でプレーしている頃も選手兼コーチだったので、どんな指導をするか。なんとなくの想像はつきます。引き継いだ頃は地盤沈下していたユースチームを、1つ1つカテゴリーを上げてくれたので、結果を残してきたことに関してはすごいなと思って見ていました。指導を受けた選手も素晴らしい人間性の子が多いですよ。」

竹中「毎日好き勝手やらせていただきました。またどうやったら自分も含めて、楽しくやれるかを追求してきました。でも、自分の価値観の中に選手たちを当てはめて、自分が何をしてもらったら楽しいのか。その記憶を引っ張り出して、現代風にアプローチして、指導に反映もしてきました。勝った負けたの結果に関しては、その年々で変わるものですが、こういうことをしないと勝てない、ということと、楽しさとのアンバランスを追求してきました。ユースの監督という立場に何の不満もなかったですし、新シーズンもアカデミーの指導をやらせてもらう形でも絶対に楽しいと思います。」

 

--最初の方で話も出ましたが、あらためて竹中さんが加入した04年のチームはどんな立ち位置だったのですか。

大友「東京都1部リーグでした。そこから2部に落ちることは町田の看板を背負っている以上は、恥ずかしいよね、だから2部に落ちることだけは避けようというスタンスのチームでした。上がる、ということはあまり考えていなかったチームだったと言えるかもしれません。竹さんが来るまではそういうチームでした。練習も週に2日。練習に参加する人が少ない時もありましたし、極端な話、今のスカウト担当の丸山竜平と守屋監督が2人でトレーニングをやっている、なんてこともありました(苦笑)。どう落ちないか、そういうことを考えているチームでした。今では笑い話ですが、試合会場に行ってから、「今日は11人いる?」なんて話が始まるチームですよ。事前に参加選手の人数を確認するといった文化もありませんでした。あらためてですが、竹さんはどういう経緯でゼルビアに?」

竹中「町田駅近くの飲食店でご飯を食べていたところ、守屋さんから電話が鳴りました。当時は横浜FCを契約満了となり、教員の資格でも取るか、と考えているタイミングでした。「一度、話を聞いてよ?」と守屋さんに言われ、悩んでいました。そしてまだ決めかねているタイミングで守屋さんに会った時に、ペラ1枚の強化計画を見せていただいたのですが、「これでどうやってJリーグに上がるんですか?」といった内容でした。すると、守屋さんが「じゃあ好きにやっていいよ」と言ったんです。」

 

大友「随所に殺し文句を散りばめて、竹中さんに「うん」と言わせたのか。守屋さんは。」

竹中「守屋さんは昔からそういう手法ですよ。数年前には今だから言える話として、「僕を入れたのは博打だった」と言われましたけどね。」

 

--決め手となったのは、「好きにやっていい」ということでしたか。守屋さんの手法もそうやって実を結んだのですね。実際に竹中さんが加入するとなると聞いた時のことを、大友社長は覚えていますか。

大友「竹さんが加入した後、「週2回の練習はあり得ない。本気でやる気があるの?」と問われました。それを聞いて、ちゃんとサッカーをやっていた頃の世界観が懐かしいなと思いました。またそういう雰囲気に戻れるだろうと思っていたら、次々と状況を変えてくれました。」

竹中「当時の選手たちはJリーグを目指していたわけではないので、僕が来たことで「困ったな」と思った選手も一定数いたでしょう。練習を週2日から3日に変えようとした時はとても反発がありましたから。そもそも目指しているベクトルが違うため、どうするか選んでくれと、当時はよくそんな話をしていたことを覚えています。でもほとんどの選手は辞めなかったんじゃないかな。どう?」

 

大友「いや、3分の1は辞めました(苦笑)。だからJリーグを目指すという条件でプレーできる選手たちを増やしたんです。パッと見、人数的には減っていないように見えるため、竹さんの中ではほとんど辞めなかったという記憶が残っているでは?」

竹中「それは失礼しました(笑)。自分に都合よく受け止めていました。」

 

--チーム改革をする上でご苦労された点はいかがですか?

竹中「苦労と思ったことはないですね。サッカーが好きでこの世界に入ってきて、毎日我慢をして仕事をしているわけではないです。何をするにも楽しいですし、面倒だと思うこともないです。むしろ苦労話をできずにすみません。」

大友「当時は何もないに等しかったですからね。練習できる場所がなければ、公園の街灯を頼りに練習をすることもありましたから。それが普通みたいな“竹中ワールド”に染まっている、そんな変化はあったと思います。「今日は公園で練習かー」みたいな(笑)。」

 

竹中「当時の自分には公園の街灯がスタジアムの照明よりも、明るく見えました。」

大友「何、決めゼリフ言ってるんですか(笑)。おかしいと思った選手もいなかったはず。Jリーグに向かっていく中で、それだけやるのは当たり前でしょうと。選手たちはそう思っていたと思います。」

 

--竹中さんの背中にみなさんが引っ張られていたと。当時はクラブ初の専属スタッフだったとのことですが、ほかにはどんなクラブ周りの仕事をされていたのですか。

竹中「サッカースクールを立ち上げて、僕の家を自宅兼クラブ事務所という形にして、FAXを設置し、申込書を受け入れる体制を作りましたが、電話に出られず、スクール生を逃したこともありました(苦笑)。当時、クラブの実情の生々しい部分を見せられてから始めているので、必死でしたよ。」

大友「スクール生1人にコーチ3人、なんて時代もありましたよね…。」

 

竹中「まさに、スタートアップあるある、ですね。そうした状況を見兼ねてか、チームの大卒選手が手助けしてくれましたし、損得勘定なく、子どもたちと一緒にサッカーをやってくれたことがエネルギーになりました。子どもたちも純粋に楽しんでくれたことが、どんどんと周りに広がっていったと思います。」

大友「大変そうだなと見てはいました。」

 

竹中「それこそ大友社長も手伝ってくれましたが、自宅事務所に来るのが、朝早いんですよ(苦笑)まだ僕は寝ているのに。」

大友「自分としては、電話に出ない・FAXが来てもその後の対応できない。では、スクール生の数が増えるわけがない。と、思い、なんとかしなければという思いから、事務所へ行ってみたら、竹さんの家でした。大変驚きました(苦笑)。」

 

--今だから笑って話せる話の数々ですね。そんな紆余曲折を経て、竹中さん加入2年目には関東2部昇格を果たします。

竹中「Jリーグを満了になった選手も所属していて、Jリーグを目指すんだという足掛かりになる時期だったなと、今振り返るとそう思います。Jリーグを目指す現場の雰囲気になってきたというか。関東リーグでプレーしていた大卒の選手が加入し始めましたし、選手を受け入れるクラブ側は大きく変わってはいないですが、勝利主導で物事を動かせるサイクルになっていきました。」

大友「その前は周りからも「何者だよ?」という見られ方でしたが、関東リーグに上がったことで、関心を持っていただけるようになりました。スクール生も増えて、スタジアムに来るとスクール生は選手たちに「コーチ!」と声を掛けてくれるんです。そんな雰囲気でチームも上昇していきました。今もそうですが、現場が結果を出すので、その分、クラブは助けられるというか。現場の結果に引っ張られてクラブの環境が次第に変わっていく。そうした循環は当時からありました。」

 

--翌年は関東1部に昇格しました。

大友「竹さんを中心にプロクラブを本気で目指そうとなり、関東1部に昇格すると、次はJFLという全国リーグが見えてきます。フワッとしていたJリーグという目標を本格的に見据えられたのは、関東1部に上がってからかもしれません。ハード面の整備や組織・財政が立ちはだかるため、その部分は直視しないようにしてきましたが(笑)、あとはJFL、J2だぞ、と思えました。Jリーグが真実味を帯びてきたと言えると思います。」

 

--JFLを目指す中では、全国地域リーグ決勝大会で敗れるなどの挫折もありました。

大友「予選でバンディオンセ神戸との初戦で敗れた後に守屋さんたちの中では、やはりJリーグを目指す上ではプロ監督も必要ではないか、といった議論もあったようです。グループリーグを勝ち抜き、決勝リーグに進出したクラブは、大半がプロ監督だったので。

状況は厳しくなったことで次のことも考えないといけないと。また並行して資金がないから、株式会社化もしようという話も出たようです。そこで下川浩之さん(現 取締役会長)に社長になっていただき、戸塚哲也監督が来たことでJFL昇格に繋がっていきましたよね。」

竹中「僕は違う立場でしたが、大半の選手は仕事をしながらサッカーをする立場でした。働きながらサッカーができる環境を与えてくださっていたパートナー企業の方々には感謝が尽きませんし、働きながらプレーしていた選手たちは自分のことを犠牲にしてきたことでJFL昇格という成果を掴みました。その中でようやくJリーグが見え始めてきました。」

 

--JFLに昇格した後は例えば、2010年のようにスタジアム問題に阻まれる形でJリーグ参入が叶いませんでした。それが伝えられた時の雰囲気は?

竹中「ある種の絶望感に包まれました。シーズンを通して結果が出そうな状況となり、結果次第ではJリーグに上がれるかもしれない。そう思っていたことがそうでなくなるわけです。当時の相馬直樹監督も選手にこれ以上求められない。勝ちとか個人の犠牲心を求められないといった話もしていました。ただすごいのは、相馬監督が「もう一度、船を出すので、みんな一緒に乗っかってくれるか?」といった言い回しで、選手たちを奮い立たせてくれました。この状況でプレーする意味を選手たちに問いかけることで、チームはまた前に進み始めました。現場はより団結、結束しました。」

 

--天皇杯では東京ヴェルディに勝利しました。

竹中「上がれないと分かったその週の中日に試合があったと記憶しています。西が丘に着いてチームバスを降りた時、目の前ではサポーターの方々が「まだ何も終わっちゃいない」という横断幕を掲げて出迎えてくれました。皆さんもショックがあるはずなのに、横断幕を掲げて選手を奮い立たせてくれたおかげで、よりチームの結束を生んだと思いますし、選手たちの奮起に繋がったと思います。その中でチームは1-0で勝つことができて、選手たちは結果とともにプレーしている意味を痛感できる試合になりました。まさに相馬監督のマネジメント力を目の当たりにしました。例えばW杯後に代表チームが帰国した時の記者会見の様子を見ていて、誰が見てもいいグループだったと思うシーンがあるじゃないですか。うまく言えないのですが、あの時のチームは、そういう空気感がずっとありました。」

 

--翌シーズンの11年は現在もチームを率いているランコ・ポポヴィッチ監督が就任しました。クラブ史上初の外国人監督ということで、期待値などはいかがでしたか?

大友「外国人監督は初めてのケースでしたが、不安はなかったです。現場はやってくれると信じていましたし、ワクワクした期待感もありました。」

 

--そのシーズンは結果的にJリーグ参入を決めました。

竹中「うれしかったという言葉に尽きますね。何度も窮地に立たされていた印象が残っているシーズンでした。そういう記憶がある中で、アウェイでのアルテ高崎戦で酒井良が終盤に決勝ゴールを決めて、事実上、Jリーグ入りを現実のものとしました。」

大友「得失点差のアドバンテージでほぼJリーグ参入を決めた状況ではありましたが、まだ確定したわけではないのに、私は胴上げしちゃってるよ…という感覚でいました(苦笑)。当時はアウェイの遠征には帯同できなかったので。」

 

--またゴールを決めた選手が地元出身でゼルビアをJリーグに上げるために戻ってきた酒井選手でした。なんだか運命めいたものを感じます。

大友「そうですね。チームの皆がJリーグに向かって戦っていた想いがゴールを手繰り寄せたんじゃないかなと思います。そして最後にホームで勝利し、酒井と同じように町田にJリーグクラブを創るために戻ってきた星大輔もゴールを決めて、正式にJリーグ入りを果たしました。竹さんが来た当時は、見えていなかった世界に、ついに到達した、という感慨深い想いでした。」

竹中「役者のところにボールが転がっていくんですね。だからサッカーの神様はいる、という話になるのだと思います。」

 

--悲願のJリーグ入りを果たしましたが、Jリーグ初年度は厳しい戦いの連続でした。

竹中「アルディレス監督は美しく勝てとは言わなかったですが、内容を追求し、内容を高めることが結果に繋がるというスタンスの監督でした。求めるものに対して決してブレることはなく、戦いましたが、結果は厳しいものでした。」

大友「決してエクスキューズにはなりませんが、その年はJリーグから絶対に赤字を出さないクラブ経営を強調されていました。そのため、当時の強化費に関しては、ビックリするぐらいの金額だったことは付け加えさせて下さい。」

 

--残念ながら1年での下部リーグ降格となりましたが、町田市やパートナー企業からの声はいかがでしたか?

大友「皆さん引き続きのご支援をいただき、とてもありがたかったです。町田市に関してはメインスタンドの改修も済んだタイミングだったため、1年での復帰に対する期待感をひしひしと感じました。」

 

--13年から竹中さんはユースの監督として手腕を振るうことになります。

竹中「12年の天皇杯でのガンバ大阪戦を終えて、13年は当時の秋田豊監督から「シーズン前のキャンプまで帯同してほしい」と頼まれていたため、そこまではトップチームに帯同していました。」

大友「そして竹中穣ユース監督の誕生ですね。」

 

竹中「当時、責任を執る形で12年のコーチングスタッフは契約満了と通達された中で、ユースを見ていた楠瀬直木さんが強化の方に回る形になりました。以前からフロントにはアカデミーで指導したい旨を伝えていたため、自分がユースの監督に就任する運びとなりました。」

 

--当時の環境はいかがでしたか?

竹中「人工芝の小野路グラウンドで練習ができる環境でしたから、何の苦もなかったですよ。」

 

--ユースを指導する上での方針はどうだったのでしょうか。

竹中「当時はまだプロ選手がトップチームに輩出されるアカデミーではなかったため、サッカーに対する関わり方や生活の中にどうサッカーが関わっていくか。その部分に関しては足りなかったと思います。どう改革していくかに心を砕いてきました。」

 

--今年は樋口堅選手がトップチームに昇格しましたし、プロ選手を輩出するアカデミーという観点では、一定の成果が出ていると思います。

竹中「当時はジュニアユースからユースに上がるという文化もなかったですから。中学から高校に上がる段階では高体連に行くことも多く、ユースはユースで改めてまた選手を集めてチームを作るサイクルでした。ジュニアユース年代とユース年代の6年間を一貫して指導する環境を作る、あるいはジュニアユースからユースにそのまま選手を昇格させることも大変でした。青木や西前一輝の代は保護者に面談をして、ユースに昇格させたいんだと伝えるなど、そういうことにもエネルギーを使ってきました。クラブユースでグループステージを突破し、ベスト16だったチームの代も、ジュニアユースからユースに昇格してくれた世代です。次第にジュニアユースからユースに昇格することがスタンダードになっていきました。」

 

--ユース卒業生の方がクラブスタッフとして新たに2名加わると聞きました。ユースでは人間形成の部分も指導されてきた中で、彼らに贈るエールをお願いいたします。

竹中「OBがさまざまな形でクラブに戻ってくることは理想的であり、魅力的なことです。サッカー選手として戻ってくることが1つの理想である中で、マーケティング部とパートナー事業部に1名ずつ、クラブスタッフとして加わり、ゼルビアに帰ってくることになりました。このクラブのことを愛している人間がこうして帰ってくることに関して、自分がやってきたことが形になったのは、誇らしいことだと感じています。またこれからもそういうクラブで有り続けてほしいです。どういう人間になってほしいか。それはボールを拾うのと同じように、仕事を拾える人間であってほしいということ。そういったことはユースで指導する中で話してきたことです。クラブのために、自分のために精一杯やってほしいと思います。」

 

--そうしてクラブは歴史を積み重ねる中で15年には入れ替え戦の末、J2復帰を果たします。長野では“ぬか喜び”なんてこともありました。

大友「私は長野の現場にいたんですよ。昇格とか良きタイミングに居合わせてこなかったので、今回ばかりは立ち会えるかもしれないという期待感を持ちつつ、長野に行きました。なぜかあんな風になってしまい、自分は周りに「違うよ」と伝える役回りでした。当時の動画でも見返していただければと思いますが、私は「×」サインを出しながら歩き回っていますから(苦笑)。やはり私はそういう場にはいられないんだなと悟りました。大分での入れ替え戦は、町田市役所でのパブリックビューイングで喜びの瞬間を共有しました。大分さんとの試合でしたが相手クラブと自分たちのクラブ規模もかなり差がありましたので、「よくやってくれた!」という気持ちでした。J2とJ3の差も分かっていますし、下からJ2に復帰するのもJリーグ史上初めての出来事でした。それもまたゼルビアらしいなと思いました。」

 

竹中「あの時のチームはシーズンを通して安定した戦いをしていたと思います。長野には全アカデミーの選手を連れて行っていた中で、“ぬか喜び”を目の当たりにしましたが…。大分との入れ替え戦は、勝つべくして勝ったという印象で見ていました。」

 

--J2に復帰し、定着していく中で18年にはサイバーエージェントグループ入りを果たします。

大友「町田市のスポーツ推進計画の一環として、ゼルビアもJ1を目指そうという中で、やはりトップリーグを目指すためには、クラブの自助努力では足りない部分が出てきました。トップリーグを目指すためにも、ほかの力を借りようという話になり、サイバーエージェントグループ入りすることを決断しました。」

竹中「力を貸してくるオーナー企業が現れたことに当時、大友社長には「すごいことだね!」と伝えた記憶が残っています。そういうクラブになったことがすごくうれしかったです。」

 

--J1ライセンスも取得しました。

大友「Jリーグクラブライセンス制度について、ハード面が整わないと、J1ライセンスを付与しないという条件から、向こう3年間でハード面が整うロードマップが整っていればJ1ライセンスを付与するという条件に緩和されましたが、ライセンスを持たないゼルビアや秋田さんが優勝争いをしたことや、ピッチ上の選手たちの力と結果が条件を緩和させた部分はあったと思います。少なからずそういうパワーがJ1ライセンス取得に繋がりました。J1ライセンスを取得することは良い影響しか生まないと思っているので、早く実現できたことに関しては、現場に感謝しています。Jリーグが見えない時代を知っているからこそ、余計に感慨深かったです。感謝の気持ちが強いですね。」

-- 野津田が1万5000人収容のスタジアムになりました。生まれ変わったスタジアムを見て、竹中さんはどんな想いですか?

竹中「夢を与えてもらえています。J1ライセンスがあるということは、J1の優勝争いやAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に参加する道が拓けているということです。現役当時、どうやったら自分が日本代表に入れるか。それを考えることに近いですが、そこに向かって仕事をする環境があるんだなと実感しています。野津田は駐車場や公園全体も整備されていますし、些細なものを見た時に感謝の気持ちがより強くなっています。」

 

--クラブハウスも本格的に使用が始まります。J1仕様のクラブ環境が整ってきました。

大友「まずは想いが形になったことに感謝しています。また選手たちも感謝の気持ちが強いようですし、ベテラン選手たちも若手選手にそれを教えてくれています。環境が整うことにより、クラブがより一丸になれる状況であるため、J1昇格という目標に突き進んでいきたいです。これまでにない期待感があることは実感しています。シーズンが始まる前の時点で、ここまで「昇格を目指します」と、ハッキリと言及してきたことはないです。外でそう話すことが増えています。良かったシーズンの次の年は得てして難しいシーズンになりがちです。それを乗り越えるためにも、私を含め社員スタッフ一人一人が、自分がチームを引っ張るんだという想いでやっていこうと思っていますので、楽しみなシーズンです。現場をしっかりとサポートしていきたいです。」

竹中「昨季もそうですが、選手たちが躍動していますよね。サッカーなので、勝った、負けたといった勝負事はつきまといますが、選手たちが「どうするんだ?」という表情で試合をしていることはほとんどないと思います。それがポポヴィッチ監督の作っているチームの強みの1つです。J1を昇格することに期待が膨らんでいます。」

 

--改めて新天地での決意を聞かせて下さい。

竹中「クラブを去る人間が何を言うんだという話かもしれませんが、まずはこうした場を作っていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。将来的にはゼルビアでACL優勝を果たす監督になりたいと思っています。そういう勝負ができる人間になりたいという想いでいます。自分に与えられたこと、自分がクリエイトできるものを毎日、一生懸命作り上げていきたい所存です。」

 

--ファン、サポーターの皆様にもメッセージをいただけますか。

竹中「04年から共に歩んでくださりありがとうございます。またこのクラブを支えてくださったパートナー企業の皆様にも感謝してもし切れません。そんな皆様にも注目される指導者になっていきたいと思いますので、どうか見守って下さい。コロナ禍が収束し、機会があれば、青森でお会いしましょう。」

 

--この流れで伺います。竹中さんにとって、FC町田ゼルビアとは。

竹中「自宅でしょうか。ゼルビアでの時間は物理的にも自分の家族と過ごしているよりも長いです。アカデミーでは選手と過ごし、事務所ではクラブスタッフと、1年でトータルにすれば、家族よりも長い時間を過ごしていることになります。とても居心地の良い場所だったので、自宅です。」

 

--キラーワード、ありがとうございます! それでは最後の締めとして、大友社長からファン、サポーターの皆様へメッセージをお願いいたします。

大友「ゼルビアはフットボールを通して、素晴らしい人材を輩出していくクラブでありたいと思っています。またトップチームは目標としてきたJ1昇格を目指して、戦うシーズンになります。引き続き熱いサポートをいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。」

 

●編集後記・・・

竹中さんと酒井さんの退団についてフロントスタッフにも衝撃が走りました。

 

その中で一つ言えることは

大友さんもまた、二人の決断(想い)を聞き

その決断を尊重されたこと。

 

そして、今回の『MACHIDiary』を見て、改めて強い絆を感じたのは私だけではないかと思います。

 

『初代Mr.ゼルビア・ゼルビアの伝説・初代専属スタッフ …etc』

竹中ユース前監督を表する表現は様々あると思います。

 

今回。

このタイミングで竹中さんのインタビューができたことが、この先も続く『MACHIDiary』の記録になると思っています。

 

竹中穣さんと酒井良さん。

二人の今後のご活躍を心から願うと同時に、お二方が胸を張って自慢できるクラブでい続けられるように。

お二方の想いも背負って、これからもゼルビアのエンブレムを胸に闘っていきます。

(MACHIDiary 編集長より)