Bonjour
今朝、ブロカント行く前に通った道〜
とても気持ちの良い朝でした〜♪
昨夜夫は2週間後の友人結婚式前という事で、
フランスの伝統の男だけの集まりがあり
朝帰り〜私はケーキ持ってニコール宅で食事へ!
別々行動でした。
フランス人だけの集まりに
1人で参加するのはあまりないけど
ニコールと夏に猫の世話をしてくれた
友人夫婦なので、誘いを断るわけには…
気心しれたフランス人友人達なので
楽しかったです〜
昨夜の男だけの集まりの写真。
彼が企画したのですが、
面白すぎる〜内容!
50歳も半ばだけどみんな少年だなぁ〜
変装しバーで集まり、ガストロノミーで食事、
バー貸切でクイズと相撲ゲームを朝方まで〜
楽しい良い思い出ができたみたい!
さて、前の独り言続き書きます。
私の学びの整理として〜^ ^
義母の叔父のピエール・マンデスフランス氏
について、少し書き留めておきたい。
まず、義母の先祖、マンデス・フランス家は
リヨン出身になりますが、
先祖はポルトガルから移民してきた
ユダヤ系フランス人になります。
当時、義母の祖父母は貧しいながら、
リヨンで縫製の工場を持ち生計を立て、
決して裕福な家族ではありませんでした。
義母の父であるジャック・マンデスフランス
(ピエール・マンデスフランスの兄)が
その会社の跡をつぎ、商業者となり
わりと成功し豊かになりましたが、
後々縫製の工場を人に任せて
パリに移動する事になります。
一方、義祖父の弟、
ピエール・マンデスフランスは、
兄のように商人にはならず、
パリのソルボンヌ大学の法学部に入り、
弁護士を目指し、弁護士となりました。
兄弟で全く違う道へ進むことに〜
ピエールは労働者の味方になり法で守り抜く!
そんな精神で働いていたのですが、
経済や政治に興味をもちだし、
彼の政治的な出発点は1930年初頭に!
当時、ユダヤ人が政界に入ることは
非常に珍しく、周りから信頼も薄く
厳しい目で見られていました。
そんな中、信念をもち誠実に働き
評価されていきます。
さて政治家となったピエールマンデスフランス
La politique doit être une morale en action
政治とは、行動する倫理でなければならない。
こう語っていたようです。
彼が政治家となったのはまだ20代の頃
当時フランスは、
世界恐慌の影響で混乱時期!
若きピエール・マンデス・フランスは、
急進社会党に参加し、当時の中道左派とし、
共和主義、教育、世俗主義、
社会改革を掲げていました。
公正な税制、責任ある国家支出、教育への投資
を訴え、誠実さと知性から
レオン・ブルム政権で経済関連の任務を任され
政府内で注目され始めます。
しかし、第二次世界大戦…突入!
これは、世界中酷かったですよね〜
彼は空軍の士官として従軍
ヴィシー政権下で、
敗戦責任を問われる事に〜
そして不当にも逮捕されます!
無罪を主張するも、
ペタン政権により懲役刑…
彼は牢獄から脱走し、ロンドンへ逃れ
ド・ゴール将軍の
自由フランスに参加。
そこから、自由と誠実のために戦う政治家として
知られていきます。
戦後、1945年、
今度は財務大臣とし復帰する事になったのです。
ここからが、1954年の首相になるまでの
彼の政治家道のりがはじまり!
マンデスフランスの家庭から学んだ誠実さ、
自らの意志で弁護士とし
法学で培ってきた理性と公正、
またユダヤ人としても戦争で体験した尊さ、
この三つが彼をつくっていたのだと思います。
戦時中、一方ピエール・マンデスフランスの兄である
私の夫の祖父は、ナチス・ドイツ軍に追われており、
たまたま祖父もピエールと同じくイギリスへ逃げていたため、
危機一髪、助かりました。
夫の祖母は、まだ義母の兄を身籠る中、
ナチス軍からはピストルで夫を出せ!と脅されたと聞いています。怖いですよね。本来なら殺されていてもおかしくない。
戦争、差別、迫害とは、どれだけ辛い事か…
今ガザでは同じように半人道的な事がおき起きていて
ユダヤだ、イスラムだ、とか関係なく人とし
そこで生きる人々が平和を感じる日きますように!
今現代存在する差別からの偏見、戦争、
正当化など絶対できないと私は思っています。
話をピエール・マンデスフランスに
戻します!
彼の政治は、戦後の復帰後、
誠実、教育、責任、平和
この4本柱にしていきました。
私は彼が政治家として
素晴らしい方であったと感じたのは、
彼の思想と言葉と行動からであったので、
書かせてください。
政治とは真実を語る勇気である
Gouvernement, c’est dire la vérité !!
統治するとは、真実を語る事!
と、ピエールマンデスフランスは1954年の
国会演説で話しました。
当時、インドシナ戦争で政府は敗戦を隠し、
フランス人の多くの兵士が命を落としていました。
それを国民に包み隠さず語り停戦を決断し、
総理大臣時代にインドシナ戦争を終わらしたのです。真実を隠し国民を安心させる事は最悪の裏切りと彼は思っていたのです。
社会が不安定な時こそ
痛みを伴うかもしれなくとも
真実を語る勇気が必要、という事です。
次に、教育と自立の力を信じよ!
L’éducation, c’est la première condition on de
la liberté!! 教育は自由の第一条件である!
こう語ったピエール・マンデスフランス。
彼にとり、自由は政府が与えるものではなく、
学びと理性によって個人が獲得するものと
考えていました。
国会の再生には、まず教育と知性の尊重からと
訴え続けていました。
第二次世界大戦後のフランスに
知的誠実さを取り戻そうとしたのです。
今は当たり前の義務教育が
当たり前ではなかった時代が存在。
現代なら当てはまる事とし、
情報が溢れる社会で、真の自由は
自分で考える力にあると言えますよね!
三つ目!
政治の目的は、人々の尊厳を守ること。
La politique n’a de sens que
si elle élève l’homme!!
政治は人間を高めるものでなければならない!
マンデスフランスは、
政治を権力や支配の手段ではなく、
人間を高める道徳的な行為だと考えていました。
1950年代のフランスの植民地戦争、失業、社会分裂にかなり苦しんだそうですが、
経済よりも、倫理を優先する姿勢を
崩しませんでした。
これが後に、
目先の結果を優先する国民からの
支持率が下がっていった原因の一つ。
しかし、どうでしょう、
今の社会や第五共和制、
崩壊に近いものをみていると、
彼の言葉を知ると考えさせられます。
また、ピエール・マンデスフランスは、
清貧と節度をも貫きました。
贅沢を嫌い、首相官邸でも
紅茶一杯で夜を過ごすような
質素な生活をしていたそうです。
官僚達は、首相は紅茶だけで国を動かしているとまで冗談を言い合ったとのこと。
しかし、そんな姿勢は、権力に酔わず、
自分の心を失わない政治家として
国民に強い印象を残したのです。
最後に平和とは対話の継続である!
彼はインドシナ戦争を終わらしたあとも、
常に外交とは、忍耐と対話と言っています。
対立よりも理解、怒りよりも理性を!
Il faut toujours préférer le dialogue à la force!! 力よりも、常な対話を選ばねばならない!
そう語り続けたのです。
これは、今現代でも、通じる言葉!
反人道的な戦争が止みませんから、
どうか、彼の哲学を飲み込んでほしい、
頭の片隅においてほしい、と願います。
さて、読んでいただけた方、
第四共和制の時代、
こんな庶民的であり議会重視した
素晴らしい政治家が
なぜ、政界から姿を消したか
気になりませんか?
理解のために必要な説明をかきます。
一つ目はアルジェリア問題が理由。
当時フランスは
アルジェリアを植民地としていました。
しかし、ピエール・マンデスフランスは、
植民地の独立戦争の拡大を避け、
政治的和解を目指していました。
国の利益より人間の尊厳を大切にした人と
私は理解しています。
なんと、これに猛反発したのが、
フランスの大企業、植民地支配層、
右派の議員、軍部です。
実際、資源が豊富な
フランスの植民地アルジェリア。
アルジェリアはフランスの一部だ!
マンデス・フランスは弱腰首相!
と攻撃され、議会で孤立していきました。
何という当時のフランス議員と大企業…
奴隷同然に扱い…
今移民問題とし、しっぺ返しがきているのでは?
とも私は思えてなりません。
しかし、当時フランス経済を
発展させていくにはやむおえなかったのでしょうか
さあ、政界から退く事になった
もう一つの理由は、
道徳的政治への反発です。
彼は、前に書きましたが、
政治に道徳を取り戻すと宣言し、
政治家の特権廃止、汚職の追及、
公共支出の透明化を次々に実行しました。
しかしこれ、これこそが
既存の政治家・官僚層にとって、
都合が悪い改革だったのです。
彼の正直差が、
結果的に多くの同僚を敵に回してしまいました。
瞬く間に議員の中で孤立していったのです。
皮肉にも、彼の誠実さが
政治的な武器を失わせたのです。
悔しい!正しいことをして、なんで?と
思うのですが悲しいかな、今も似たような…
三つ目が、国民の即効的成果への失望。
彼の改革は長期的には有効でしたが、
短期的には失業や物価上昇などが目立ち、
庶民の生活改善はすぐには実感できるものでは
ありませんでした。
国民は理想なんかより
現実的な速攻効果を求め始め
議会重視の第四共和制、
わずが数ヶ月で
ピエール・マンデスフランス総理大臣は
人気が急落してしまいました。
1955年2月5日、
議会で不信任案が可決され
彼の内閣は崩壊したのです。
在任期間はわすが、8ヶ月と18日。
しかし、彼はこの日毅然として
Je préfère être battu que de trahir mes convictions! と言ったのです。
信念を裏切るくらいなら、敗れる方を選ぶ!
私は、彼は負けたのではない!
と確信、思えています。
もし、彼のことを歴史の
結果としてしかみていなければ、
又こうして学ばなければ、
短命な首相だったんだ、
と話は終わっていたかも。
私、調べて涙が出てきました。
シャルル・ド・ゴール大統領政権になってから、
今の第五共和制に移ったフランスですが、
第四共和制の議会中心政権からの
大統領が権限を持つ強すぎる大統領制
第五共和制には
倫理的違和感を持ち、
ピエールマンデスフランスは、
ド・ゴール大統領の政権下では
一切の大臣職を拒否したのです。
そして、その後ますます孤立してしまい
政界から退きます。
その後、彼は政治家でなく、1人の人とし、
大学などで講演活動をしたり、
アルジェリア独立にも力を注ぎ
彼の葬儀には多くのアルジェリア出身
フランス人が参列したと聞いています。
フランスには銅像もあるし、
道に名前だって残ってる!
ミッテラン大統領時期にもなれば、
ユダヤ人も政界に入りだしていますが、
当時はユダヤ人というだけで信用もされず、
彼の誠実な心と努力で総理大臣にまで
議会により任命されたマンデスフランス。
政治の舞台を去ったあとも、
執筆と教育に専念し
La république moderne
Choisir などくに著作で、
政治の道徳・教育・市民意識の再生を
訴え続けたのですから
芯がフランス人をフランスを愛してた。
私利私欲に生きるのではなく!
彼は権力ではなく、教育が社会を変えると
ずっと信じていたのです。
また彼にとり大切なのは、権力ではなく、
いつでも、それは誠実さでした。
Je n’ai jamais confondu le succès avec la dignité. 私は成功と尊厳を混同したことはない。
短命政権に終わった、敗れた政治家
としてではなく、
誠実に政治を貫いた稀有な人物として
記憶されているのが、真実です。
大学で講義し、書物で思想を伝え、
私は、彼は政治家ではなくなっても
静かな勝利だったと思います。
第五共和制、初代大統領のシャルルドゴール、
彼は大統領権限を偉大にさせる事で統治、
植民地も継続させフランス経済を豊かにし、
いわゆる偉大な指導者、指揮者が現れたわけで
理想を力で実行した大統領となりました。
目先の経済は目まぐるしく成長し、
良い面、悪い面ある中で、
時代の流れは今に至ります。
時代、時代、何が良いかはわかりませんが…
歴史の中で生きた1人の誠実な政治家
ピエール・マンデスフランス
どう思いますか?
また今の第五共和制は?
私は前回書いたように、
マクロン大統領政権下、
何度も変わる首相、
直近の首相が26日で辞任…からも
第五共和制の末期に感じるわけです。
マクロン大統領も賢い方ですし
彼の信念と指揮と考える未来に
国民がついていけていないようにも感じます。
首相の変わる頻度と、辞任の言葉…
何か欠けているようにも
ピエール・マンデスフランス、
彼が生きていたなら、
今の大統領や首相になんと言っただろうか?
会って話をしてみたいほどです。
たまたま、夫の母方の祖父の弟が
ピエール・マンデスフランスであったので
政治歴史に残っている人物ですし、
調べた次第ですが
フランスどうなるんでしょうね。
心豊かに楽しく毎日笑顔でファイト!
これに尽きる!
今週も頑張っていきましょう♫
パリの一部の風景〜
Bonne journée



