今回は、アベルについて考えてみたいと思います。
私は、「誰々がアベルである」という主張の根拠に、文先生のみ言葉や儀式などの出来事を引用される支持者の方々の記事に違和感を覚えます。
これも前回の「無原罪」についての記事同様に、メシヤであろうが誰であろうが、「誰々がアベルである」と言ったその言葉により、アベルが決まるという原理はないわけです。誰かがアベルとして立つためには、アベルとして立つための路程があるわけです。
その路程については、今更言うまでもないことですが、一応確認しておきたいと思います。
摂理歴史において実際のアベルは、カインによって殺されてしまいました。ですので、アベルの責任を果たした人物はと言えば、ヤコブになります。
ヤコブは、イサクを騙して長子権を奪うことでエサウの恨みを買い、殺されそうになります。そのため、叔父ラバンのいるハランの地に逃れ、そこでラバンに10回も騙されながらも忍耐と精誠を尽くして信頼を得て、2人の妻と12人の子供たち、それに大勢のしもべと家畜を得ます。
更に、故郷へ帰る途中に天使にもものつがいを外されながらも祝福を受け、天使に対する主管性を復帰しました。
そして、自分を殺そうと待ち構えるエサウに対して、自分のしもべと家畜を捧げ、更に家族を捧げ、自らはエサウに対し7度拝して「あなたの顔を見ると神を見るようです」と言って全てを捧げて愛して行ったわけです。
ヤコブがこの間費やした年月は21年です。
更に文先生のみ言葉を確認してみたいと思います。
-----引用開始-----
「血を流す歴史的な祭物路程というのは、カインにあるのでもなく、アダムにあるのでもなく、父母にあるのでもありません。誰にあるかといえば、アベルにあるというのです。アベルの立場はどんな立場かといえば、天使長の立場です。では、どんな天使長かといえば、堕落しなかった天使長なのです。
この天地をすべて堕落させた中心的な天使長がサタンになったために、これを復帰するために、アベルを通して蕩減してきたことを皆さんは知らなければなりません。それゆえに、血を流したのは、カインではなくアベルなのです。アベルが打たれてきたのです。堕落した天使長対堕落しなかった天使長の戦いなのです。これが今までの歴史であるということを知らなければなりません。
主が来られる前に、真の父母が来られる前に、このような戦いをしなければならないのです。アベルという存在がそのような立場であることをはっきりと知らなければなりません。」
「アベルとは、第一にカインを復帰しなければならないし、第二に父母の実体と心情を復帰しなければなりません。アダム・エバが天使長と愛の因縁を結ぶことによって、神様の実体を蹂躙し、心情を蹂躙したので、アベルはこのような事実を蕩減するために、その実体が犯されなければならないし、自分のあらゆる希望が蹂躙されなければならなかったのです。このような立場から出たのが、アベルなのです。反対だということです。 天使長がアダム・エバを堕落させることによって、理想的な実体を犯し、理想的な愛の世界を犯したので、これを蕩減するために神様はアベルを立てたのです。それで、アベルが実体的に血を流さなければならなかったのです。・・・」
「・・・ですから、天使長は、自分の所有と全権限を誰に渡さなければならないかというと、アダムに渡さなければなりません。これと同じく、歴史時代にアベルも、自分の命を完全に犠牲にする立場に立って、一つの希望である主を中心としていかなければならないのです。・・・(中略)・・・ですからアベルとして、祭物を連結させてきたのが、今までの宗教の歴史であるということを、皆さんは知らなければなりません。」 (御言選集55巻)
-----引用終了-----
引用元ブログ:「御言missing link」
42.「アベルの立場は、神様がアダムを創造する時に協助した天使長の立場と同じです」
http://ameblo.jp/mnlgs/entry-12118369486.html
43.「堕落した天使長対堕落しなかった天使長の戦いなのです」
http://ameblo.jp/mnlgs/entry-12120874458.html
44.「天使長は、自分の所有と全権限をアダムに渡さなければなりません」
http://ameblo.jp/mnlgs/entry-12123370807.html
み言葉によれば、アベルは自らを犠牲にし、所有権を全て返してカインを愛する道を行く人のことを言います。
家庭連合のように「文先生が、あー言った、こう言った」ばかりで実体を示せない証しは、カインとしては致し方ないのですが、アベルの証し方ではないように思います。