ブログタイトルにも使っている『宿命』という言葉で、こうして記事を書くのは初めてかも知れない。

人が生れながらにして背負っているものであり、運命とは違った【変えること】が出来ないと言われているもの。

ジョーティシャに出会い学び始める前には、己の宿命など気にも止めなかった。

毎日が、ただ何と無く過ぎる事さえも疑問に思わなかった。

私をジョーティシャの道に導いてくれた友人のKさん、そしてジョーティシャの基本を教えてくれた茶丸先生、ジョーティシャの学びを深める為にサンスクリットを教えてくれたCh・K先生、インド哲学を教えて頂いているパンダ先生。

私に取っての四賢者に出会えたことも宿命だったのだと思う。

人間は、生まれた時から穢れている訳ではない。

自らの無知が己を穢していくのだと思う。

無知である事、それもまた宿命。

ただ、行く宛は決まっていても辿る道順は変えられる。

それが運命というもの。

ジョーティシャを学び、幾度となく己の未来を予測してみて気付いたこと。

時期を見定めて努力をすれば、辿る道順を変えることが出来るということに気付いた。

ただ、中々予め見定めて行動出来る人というのは少ない。

その時期が近づくと、何となくその時を迎えて何となくその時が過ぎていく。

これが宿命(プラーラブダ・カルマ)である。

ジョーティシャは、このプラーラブダ・カルマを読み予測して意識的に行動する為の学問だと言っていい。

宿命に逆らったり抗ったりするのではなく、宿命を理解して意識的に生きることを可能にさせる方法なのだと思う。

だから私は、自らの宿命に感謝しているのです。