南インドの言語であるバーリ語の経典 

スッタ・ニパータに出てくる人間の欲望について書かれている部分があった。

日本語訳は、中村元という人がしている。

その中から一部抜粋する・・・

この経典は、釈迦仏法で説かれている教えが書かれている。

その中のダニヤの章 33節と34節のやりとりで悪魔と仏陀の問答に目をひかれた。

その内容とは・・・

33節 悪魔パービマンは言った。

『子のある者は子について喜ぶ、また牛のある者は牛について喜ぶ。

執着する元の無いものは、実に喜ぶことがない。』

34節 仏陀は答えた。

『子のある者は子について憂い、牛のある者は牛ついて憂う。

実に、人間の憂いとは執着することであり、執着する元の無い者は憂うことはない。』

人間は、日常に於いて少なからず少々の喜びを得る為に苦悩と戦っている。

その少々の喜びの為に、苦しみ悩み憂いを感じるのだとしたら、瞬間の喜びの為に払う対価(苦悩や憂い)によって得る瞬間の喜びとは、本当に価値があるモノと言えるのか?

仏陀は、そんな風に問いかけているように私には感じました。

所謂この経典は戒律を記しているもので、別の側面から見ると戒律に縛られることなく自分というモノをしっかり意識しなさいということを言っているようにも思う。

第三章 犀の角の章では戒律の度合が少々強く出ている。

例えば35節には、こんなことが書いてある。

あらゆる生き物に暴力を加える事なく、あらゆる生き物のいずれをも悩ませることなく、また子を欲することなかれ、況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

誰かに関われば、それは全て欲望(執着)の元になるから、作ることも持つことも意味がないと言っている。

子を欲することについて、もっと直接的な表現が36節でされている。

『交わりをしたならば、愛情が生じる。愛情に従ってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生じることを観て、犀の角のようにただ独り歩め。

『観て』という言葉は知って理解することを意味している。

また、37節では、友達についても書かれている。

朋友、親友に憐みを掛け、心が絆されると己が利益を失う。親しみにはこのような恐怖が内在していることを観て、犀の角のようにただ独り歩め。

これは、本当の友達ではない人とは関わりを持つことの無意味さを強調しているのだと思った。

というのも、47節にはこのように書かれている。

我々は実に朋友を得る幸福を讃め称える。自分より勝れる、或いは等しい朋友には親しみ近づくべきである。このような朋友を得る事が出来なければ、罪や過ちのない生活を楽しみ、犀の角のようにただ独り歩め。

仏陀は、ただ欲望や執着を持たない、捨てればいいと言っているのではなく

物事(欲望や執着)と言った、生命活動に不要と言えるモノを排除することが大切なんだと言っているのだと思います。

欲望とは、常に自分の外側にあるモノであり、その欲望は目、耳、鼻、味覚、触覚の5つの外的感覚器官と思考、知性、心、エゴの4つの内的感覚器官によってもたらされるものです。。

このもたらされる欲望が生命活動に必要不可欠かどうかを識別することが必要であり、大切なんだと。

とあるブログで『天命を知り、天命に生きる』と難儀なことを謳い、その実・・・

欲望を叶えることが天命だと言っている輩も居たりしますが、それこそ欲望に振り回され、気が付けば後悔しか残らない人生でした、チャンチャンという落ちで終わるような人生だけは、私は送りたくないと思っています。

まずは、必要としない欲望(執着)を持たないことから、始めないとならないと、最近の私は考えているのです。