無執着と自利利他について考えてみた。
インド哲学では、人間の最終的な目的について
『悟り』に至ること、到達することと述べている。
それは、仏教となり日本にも伝わっているのだけど
紆余曲折を経ているせいか、イマイチ正確に理解されていないように
私には思える。
まず、インド哲学でいうところの『無執着』とは、何物にも拘らない状態や
執着や関心を持たないことと勘違いされがちだが、実際にはそうではない。
『無執着』とは…
物事や行為行動に伴い、それにより得た結果の全てに満足すること。
そして、最終的には自分も他人も分け隔てなく存在自体に満足をすることで
辿り着くサーマの状態を『悟り』と称し、生類が目指す最高の場所としています。
サーマとは『平な』という意味や『どちらでもない』という意味があり、仏教でいう花が咲き乱れる極楽浄土とは、180度反対の状態と言える、何もない状態と言われています。
これは、するべきことを全てやり終え、どんな状況や状態にも満足していれば、自分自身がここに存在することにも満足し、何も欲しなくなるということなのです。
そして、満足している人は『どんな状態』でしょうか?
それは、最高にハッピーで幸福感に包まれた状態と言えます。
そんな幸福感に包まれた人は、知らず知らずのうちに他人にも幸福を分けてあげようとします。
それが、自利利他の教えである、自分の利益は他人の利益でもある。
ということに繋がるんだと思います。
個人情報保護とかプライバシーの侵害を防ぐ為ということを誤って認識して無関心になっている人、最近増えてませんか?
自分本位に振る舞い、自分が良ければそれでいいというような行為と行動をする人が最近増えているようにも思います。
無関心は、無知から起こります。
でも、無執着は満足から起こるものです。
その違いが判る人は、幸福になる近道を見つけた人なんだと思います。