タイトルの『スワ・バーヴァ・プラバラティン』とは


自然の性質という意味を持っている。


つまり、あるがままの姿ということです。


本来の人間に生まれた目的を思い出して、あるがままを受け入れること


感覚の対象物(楽しむことや本来の目的から外れた行為、行動)を捉える為に


五感を使うのであってはならない。


スロートラ(耳)で音を聞くこと、トゥワチャ(肌)で感触を確かめること


チャクシュ(目)で見ること、グラーナ(鼻)で匂いを確かめること


ジッファ(舌)で味を確かめること。


これらの五感が本来果たさなくてはならないこと以外に


利用している人が、恐らく大半だと思う。


愚かな人間とは、決して自分の中にあるモノを見ることをしない。


否、出来ないという方が合っているかも知れない。


賢き者とは、自然の性質から離れ、感覚(五感)の対象物へ向かう感覚を


引き戻し、内在する自己意識を見ようとする人の事を指す。


しかし、この自己意識を見るということは、そんなに容易なことではない。


それが出来る人のことを、インド哲学ではこう呼ぶなのだという。


『カスチット・ディーラー』(稀なる賢者)と。


人間は、執着と欲望の中で生きている。


あたかも、それが正しいと思っている人も非常に多い。


欲望には、3つの形があることを知らない人が殆どではないだろうか?


欲望の形としては…


・目に見えない欲望(これをカーマナという)


・徐々に形になりつつある欲望(これをバーサナという)


・目に見える形となった欲望(これをラーガという)


目に見える形となった欲望は、執着というモノに形を変えて、やがて


本来の目的を忘れさせるという弊害を生じさせるのだという。


人間が本来目指すのは、至福であり


そして至福とは悟りの別の形であると言われる。


この至福に到るには、ではどうしたらよいのだろうか?


答えは、執着を捨て無執着になることが必要とされていて


ラーガ(執着)を捨て、ヴァイラギア(無執着)を得ることが至福に到る為の唯一の方法と説かれている。


人が一番捨てることが難しいというモノを皆さんはご存じだろうか?


人は、行為や行動は比較的容易に捨てることが出来るという。


しかし、自分自身を捨てることは、中々出来ない。


自分自身というのは、人間を辞めれば良いというのではなく


私が…とか、僕が…というように、自分を主張する部分である。


自分を主張するというのは、そこに執着が存在しているからであり


その主張すること自体を捨てない限り、ヴァイラギア(無執着)には辿り着くことは出来ないのです。


プラーラブダ(時と共に顕現する欲望)でさえも、あるがままに受け入れること


好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかではなく…


その目にする、感覚を伴うこと、起きる全てを受け入れ、吸収することが出来るようになると執着は無くなると言われています。


私が行う、僕がやるというのではなく…


『その瞬間に自分が何をするべきなのかを唯、考えるだけ』が出来ない人が、この世界には溢れていると言われています。


行為や行動、思考でさえも執着を持つ必要はないのだということが理解出来た時


至福への一歩を歩み出すのだと思います。






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