せつなく、ハッピーエンドでは終わらない、だけどそれがいい映画だった。
誰しもがこんな思い出、持ってるんだろうな。
社会に出る手前の自分にとって、
これからも忘れてはならない気持ちの一片だったと思う。
Youtubeにもあがっているので是非見てみて。
MAD載せときます。
バイト放棄して帰ってきました@愛知
いやいや相変わらず何にもないところで、
チャリすらないから出かけることも出来ず、引きこもる毎日ですよ。
でも年明けたら後輩ゼミに就活の話をしに行かねばならんし、
卒論発表会に免許合宿に海外旅行の予定もある。
今のうちに引きこもるのも悪くないか。
って今日クリスマス…
卒論終わった。
時間との戦いで、100%満足できる内容かと言われれば
NOと言わざるを得ない。
でも、初めて世の中に向ける目線で書いた。
今度はこれを国際会議場で発表する。
資料作りがまためんどいなー。
がんばろう。
いつも興味深く読ませていただくブログがある。
それがこれ↓
来年からとある大学で働くので,内情を知るために実にかかさず読んでいる。
そのブログに本日、印象的な記事が掲載された。
本文をそのまま引用する。
絶望と希望~現実と理想~
先週から
高校回り、いわゆる営業の仕事をしている。
今年の受験状況どうでっかー、本学の受験はこんなになってまっせー
というやつである。
縁もゆかりもないというところに行くのは難しいので
さまざまな観点で抽出された
縁もゆかりもある(←多少強引なところもある)高校に行くのだが
高校の偏差値レベルにも
色々なところがあり、
頭のいい高校~がんばって欲しい高校レベルまで
「はい、次!次!次!」という感じで
乗り込む。
その中で今日、印象的だったのは
このご時世の波をモロ被りの生徒さんの話だった。
先生もつらそうに言う。
「私だったら、ないお金でもかき集めて大学に行かせるけど・・・。
そんな必要はない、行かせる金もないと言い切る親の
受験生がいてて、結局その子は進学諦めました」
親の荒み具合というより、
価値観が・・・と言って
お互いに絶句した。
私はたまたま大学で働いているけど、
別の仕事をしたとしても
やっぱり大学は行っておきたかったし、
親も取り立てて何も言わなかったから、
そういう価値観に実際出会うというのは衝撃だった。
教育に理解あるか、ないかというのが
両極端なんだそうだ。
大学は一応、そういう点では価値観はそろっています。
だって大金用意するんだもん。
負担感に差はあれ、一応腹はくくっており、理解もあります。
何を持って、そう言うのか。
言わせるのか。
親は何も知らない、というわけがない。
親のすごさを思い知らされた。
それに従うしかない子の哀れさ、悲しみとセットで。
きっとその受験生は救いようのない絶望をかかえて
高校を卒業するのだろう。
お金のことならなんとか解決がつく。
手段はあるものだ。
ただ、価値観というのは
全てを溶かし歪ませる危険がある。
その中に陥ると
抜け出すのが困難だと思う。
自己評価が低くなり、
何より、笑わなくなる。
窓口で学生を見てきて
深い絶望を抱えた学生の共通点がこれだ。
あなた、私より若いのよ!?
箸が転げるぐらいで腹を抱えて笑えるはずなのよ?
何があったんだ。
そう思っていた。
貧困の連鎖、という単語を見聞きするが、
私のそばで
それは生きていた。
増殖する可能性を十分に感じさせる程の存在感で。
手持ちのカードを使い果たすのではなく、
取り上げられてしまった
この子の明日には、1年後には、未来には
何が映っているのだろう。
重い気持ちで高校を後にした。
(引用元URL:http://ameblo.jp/0141melon/entry-10406682111.html )
私が卒論を書く意味はまさにこれだった。
大学を受験する年齢の子どもに、
財政的な選択の余地はほぼない。
奨学金がいくら充実させてあろうとも、
親が奨学金を理解していなければ受給する機会すら与えられない。
勉強したくない奴は放っておけばいい。
だけど、
勉強したい子どもには、
せめて平等な機会を与えてやりたい。
そのために財政支援が重要であることは理解できるが、
それよりも親の理解を得ることが何より大事であることがこのブログからも分かる。
教育の機会均等は中等教育段階における親の理解から始まるのだ。
私はそれを一つの文章で発していく。
卒論が佳境にはいってます。いやー辛い。
テーマが「高等教育(大学)の漸進的無償化は行われるべきか」
べき論です。
自分視点で考えれば当然したほうがいいと思うんだけどさ、もっと広い視点で考えれば厳しいよね。
日本の財政、雇用文化、教育の大衆化における教育レベルの低下等…
難しいもんだ。