昨日のブログもそうですが、今までのコメントを見て私と同じ経験をされた方がたくさんいらっしゃることを知りました。
そして中には最近、ご主人を亡くされた方もいらっしゃるようで、私なんかの話を聞いてもあまり意味がないかもしれませんが、少しでも何かのきっかけになればと思い、今日も長文になりますが、思いつくまま書いてみたいと思います。
自分の命よりも大事だと確実に言いきれる人を亡くしてしまった人の、辛さや痛み、そして悲しさや寂しさ。
誰も同じだと思うんです。
私が主人を亡くしたとき、「まだ若いのに、可哀そうに、辛いでしょう。私なんかもう80を超えてから亡くしたので仕方がないと思うけど・・・。」そういって慰めてくれる優しい人がたくさんいました。
でも何度考えても、たとえ私が80歳の時に主人を亡くしても、今回と同じような感じだったと思います。
ただ、私のように予期もせず、突然消えるかのように主人を亡くしてしまった場合や
長年病と闘い、そして亡くなってしまった場合。
若くして亡くなってしまった場合、
往生して亡くなってしまった場合。
それぞれの辛さと、痛みと、悲しみと、寂しさの比率や順番が違うだけだと思います。
私の場合は、本当に突然で、信じられない、ありえない、夢であってほしい・・・そんな気持ちでしたから、寂しさを感じるまではかなり時間がかかり、辛さと痛みの比率が非常に高かったようです。
そして「ご臨終です」と言われた時は、奈落の底に突き落とされたような、そんな気持ちでした。
何か試練があれば、「がんばって山を越えよう」って思うんですが、その当時の自分は山の麓にいるんじゃなく、「底知れぬ深い場所」に突き落とされた感じでした。
それまでの生活が幸せであればあるほど、高い所から突き落とされるわけですから、その衝撃度は計り知れません。
でも昨日のブログにも書いた通り、底知れぬ深い場所から最初に引き上げてくれたのは私の両親であり、兄でした。
兄は、主人が火葬されている時、「もう一緒に私も火葬してほしい・・・」そう思っているときに、「桂子、もうすぐ僕は定年やから桂子の家で一緒に住もうかな」そう言ってくれたんです。
私と違い口数が少ない穏やかな兄ですが、その言葉にも救われました。
「私は1人じゃないんだ」
そう気づかせてくれたのは兄でした。
谷底に落ち、さらに深い所に落ちそうになったところを家族に救われました。
手を差し伸べてもらい踏みとどまりました。
でも深い谷底にいるのには変わりはありません。
谷に落ちてしまった場合、無理によじ登ろうとすれば足を踏み外して、又、下に落ちてしまうかもしれません。
だから私はその落ちてしまった谷に、「何か」を少しずつ積み上げて、ゆっくりと自然に上がっていこうとおもったのです。
無理をしてよじ登ろうとは思いませんでした。
その「何か」が小さな幸せなのです。
本当に小さなことなんです。
車を走らせていると、車線に入りたいけど、どうしても入れない車があった時には出来るだけ道を譲ってあげるんです。
そうするとその車が、車のハザード(車の後ろのライト)を2回、チカチカと照らすんです。
それは「ありがとう」のサイン。
そんなハザードを見て、嬉しくなります。
これも小さな幸せの1つ。
逆のパターンもあり、私がなかなか車線に入れずに困っていると、「ここに入っておいで~」とライトで合図をしてくれる車があったりすると、嬉しくなります。
また友達からLINEが来たり、一緒に食事に行ったり、
一昨日は長野県の友達から美味しいりんごを送ってきてくれました。
その箱を開けた瞬間、甘くて酸っぱいりんごの香りをかぎ、幸せな気分になりました。
野菜の出荷をしに行ったら、白菜は重いから出荷場の人が手伝ってくれて嬉しかった。
郵便局に発送する荷物を運んでいたら、数が多いので中から職員の方が出て来て手伝ってくれて嬉しかった。
そして昨日は、途中まで育てていたパンジーの苗が主人が亡くなったのでそのままになっていて、枯れてしまい全部捨てたのですが、その捨てた場所から1つだけ花が咲いているのを見つけて嬉しかった。
ミツバチがたくさん生まれてブンブン元気そうに飛んでいるのを見て嬉しかった。
久々の農作業で疲れて家に帰ってくると、ごんぼさんが出迎えてくれて嬉しかった。
『嬉しい』『ありがたい』と思う感情は、それは幸せの1つだと思うのです。
だからいっぱい幸せなことはあるし、探せば落ちているんですよ。
そうして小さな幸せを、谷に積み上げていき、今の私は上へ上へと自然と上がってきています。
バケツの中に落ち葉が落ちて、そこに水を入れると自然にその落ち葉が浮き上がるかのように。
それにそういう風にして小さな幸せを探して沢山見つけた日は、1日が経つのがとても速いんです。
全ては時が解決してくれると思っているので、1日があっという間に終わることは私にとってはいいことなんです。
主人と最後の共同作業で育てた白菜を見て「美しい」と感じたときに、昔よく一緒に飲んでいたおじいちゃんの言葉を思い出しました。
もう6年ほど前の話ですが、中庭に落ちている紅葉を見て「美しい」といった私に、
「こういうものを見て美しいと思えるのは幸せな証拠」だと言いました。
だから私はその白菜を見てたぶん、幸せを感じたんです。
人が私に優しくしてくれて嬉しいと思う幸せとは又別の幸せ。
そんな幸せを初めて感じさせてくれたのは主人のおかげです。
この白菜の収穫のあとから、上を見上げるようになりました。
上を見上げたら空がすごく青くて綺麗だった。
また、色んな景色に目がいくようになりました。
朝、白菜の出荷に行くときに田んぼに霜がおりて真っ白で、そこに朝日があたりキラキラと輝いていて綺麗だと思った。
それまでは「主人が逝ってしまった」という1点しか見ていなかった自分が、
いつのまにか視野が自然と広がって、他の物にも目が行くようになったのです。
視野が広がれば広がるほど、幸せを見つける確率は高くなります。
だから今は人の優しさ以外にも自然に癒されています。
村には「氏神様」が祭られている神社があります。
主人はその神社の総代をしていました。
その役は順番に回ってきて偶然今年は主人が総代でした。
その神社の宮司さんが気さくな方で、主人とよく気があっていました。
そのお世話になった宮司さんに主人が亡くなったこと、生前お世話になったお礼の連絡をすると、すぐに家に来てくださいました。
宮司さんなのに、主人の仏壇に手を合わせ、お線香をあげてくれました。
そして私にこういう言葉を言ってくださったのです。
空や雲、花や草木、太陽や月、
自然の物が守ってくれていますよ。
母なる大地から、たくさんの恵みを受けてください。
素晴らしい言葉だなと思い、心に染みました。
主人が総代をやっていてくれたおかげで、こんなにも心を救ってくれる言葉をいただいた。
今では本当に自然に癒され、守られている気がします。
空を見上げれば太陽があり、夜にはきれいな月や星がある。
何気ない草であってもよく見れば新しい芽が出ていたり力強く生きている。
幸せは誰にでも、どんな状況になってもあると思います。
だから私も一旦は奈落の底に落ち、暗闇の中でもがいていましたが、毎日、毎日、小さな幸せを見つけて、積み重ね、大きな穴を埋めていきたいと思います。
自分の命よりも大切に思う人がいたからこそ、その人の為に、自分は幸せに生きなければならないと思うのです。天国で安心してもらうために。
私と同じ経験をされた方、一緒に見つけましょうね、小さな幸せをいっぱい
ポチッと押して応援していただけると嬉しいです♪
↓↓↓
Twitterやってます→こちら