黒船について

 

なぜこの時期(19世紀半ば1853年)にペリーが日本に来る必要があったのか。

そのころアメリカは独立して70年あまりの新興国でした。欧州と通商貿易や運輸運送がこの若い独立国家の生命線でした。その時ライバルとして立ちふさがったのがかつての宗主国で世界に冠たる海洋国家のイギリスでした。イギリス・アメリカを結ぶ大西洋横断定期便が始まった1830年代はイギリスの会社の船舶でしたが、1852人ペリー来航の前年にはアメリカの汽船がイギリスを追い越し、イギリスに対抗しうるだけの海運力を身に着けます。ここからアメリカの戦略は全世界に展開する大英帝国の蒸気船ネットワークに対抗することでした。イギリスはすでにエジプトやインド洋をわたって香港・シンガポールまで航行する路線を持っていたのです。そこでアメリカは太平洋を越えて中国などアジアの広大なマーケットにアクセスすることでした。そこでネックになったのが、蒸気船の原料となる石炭です。当時、石炭採掘の先進国はイギリスで、アメリカもイギリスのウェールズから石炭を運んでいました。太平洋やインド洋には石炭の供給地がなかったため、アメリカが目を付けたのが日本の石炭だったのです。当時、日本では三池、筑豊、宇部と産地がありました。そこを抑えることがアメリカにとって急務であったのです。ペリーの力ずくの対日外交の背景にはイギリスとの国際的海運競争という重圧があったのです。

 

名所旧跡

浦賀 ペリー公園、ペリー記念館

下田 伊豆急下田駅、駅前のサスケハナ号模型、

下田公園には最初に上陸した場所に上陸記念碑が。ペリー通りを通って了仙寺(りょうせんじ)へ。ペリー一行が日米和親条約を結んだお寺。

勝海舟が坂本龍馬の土佐藩へ戻れるよう山内容堂にお願いした謁見の間がある宝福寺など