長かったような・・・
あっという間だったような・・・
そんな10年です。
当時は、
19歳、初夏
定時制の工業高校4年生(4年制)の電気科
仕事は料理人になるための修行中
(卒業するまでは親のラーメン屋で働き、卒業後に料理人修行の予定だった)
サッカー部初代部長で大きな大会が終わったばかりで、数週間後にはまた試合の予定
(学校終わりの21時ごろから23、4時ぐらいまで部活)
まるでサッカー版ルーキーズ+αみたいなチームだったな。
今でも、よくあいつらをまとめられたなと思う。
あと、確か期末テスト期間だった気がする
あわせて、電気科は夏休み中の電気工事士試験に向け軽くそわそわ
ロボコンに向けチーム分けもしたっけな
髪の色は確か金髪だったかな
163cm(中2から変わらず)
体重は確か50キロ半ばぐらい
(↑筋肉で増えた体重)
お腹は筋肉で割れてました・・・
今の俺しか知らない人は想像できないだろうな(笑)
基本サッカー少年で、一時期、器械体操もやってました。
そうですね、今より30キロ近く痩せてましたわ。
夢、仕事、スポーツ、学業、恋人、家族、友達、先生、経済的、遊び、体、
あらゆるものが充実していて理想的な人生でした。
しいて言うなら、ずっと眠かったな~。
授業中よく寝ちゃってたんだけど、
友達が先生に「仕事と部活頑張って疲れてるから寝かせてあげて」と言ってくれたり、
それで先生が「そうだな」っと言ってくれてたのが寝ながらも聞こえてる時あって、
すごく嬉しかったし、ありがたかったな。
通学は車で、当時の車はマークⅡ
確か24万ぐらいで、自分で買いました。
片方のミラーには南国っぽいレイ
爆笑しながら左折した際に軽くこすってちょっとへこんだ跡には指で書いたスマイリーマークの落書き
駐車場所は昼間の子らが野球やサッカーをやっている校庭の近くの通路に停めてたので、たまにボールが飛んできたりしたな
10連CDチェンジャーとかも懐かしいなぁ
あ!
この10年を振り返るつもりが、
その前を振り返ってた
自分の車を友人が運転
自分は助手席
ノーシートベルト
ディープスリープ
その直後に事故
R123号線の新鬼怒大橋?からダイブ
自分は寝てたので記憶は無い。
(ここで自分では寝てるつもりだけど、きっと気を失っていたのだろう)
目を覚ますと、目の前にばあちゃんの顔
いきなりで、かなり近かったのでびっくり
近くには母親と彼女もいる
白い無菌服を着ている
目に入ってくる光景から、そこが病院の集中治療室だと、
そして、大きな事故をしたんだなとすぐ理解できた。
鼻や体のあちこちから管が出ている
胸には圧迫感があり、鼻の管と合わせ、息が苦しかった
部屋の外には家族や親戚たちなどが来ていることを聞いた
かなり遠くから来てくれてたりもした
部屋には3人しか入れないんだそうだ
でも、感覚で部屋のドアの方向に大きな何かを感じていた
心配そうにそばに来てくれるばあちゃんと彼女と母親
幸い喋れたので、確か謝罪と感謝と自分は大丈夫と安心させようと何か言ったと思う。
3人の顔を見て”やっちゃったな。皆にすごい心配・迷惑かけちゃった。”ということをずっと考えていた。
そして”こんなとこでこんなことしてる場合じゃない、早く治さないと”とも思っていた。
後で聞いたけど、1週間ぐらい命の保障は無いと言われてたみたい。
あんなに喋ったりできてたのに不思議だなぁと思う。
あと、自分が目を覚ますことができたのは、きっとばあちゃんのおかげなのかなと勝手に思っている。
目を覚ましたときに顔を近づけていたっていうだけなんだけど、なんだかそんな気がしている。
もう、この世にはいないけれど、本当に本当に感謝している。
家族にも、彼女にも、友達にも、本当に本当に感謝している。
ある日、先生がこんなことを言っていた。
「奇跡的な回復だよ。大切な臓器がパカって割れちゃったんだけど、パカってくっついたんだよ」
もちろん、その後ちゃんと詳しく説明してくれたんだけど、↑の表現がおかしくて、それしか頭に残らなかった(笑)
「お金や他のことは全部任せてお前は治すことだけに集中しろ」という両親の言葉や、
彼女が神社でお祈りしてもらってきてくれたお守り、
お見舞いに来てくれた皆がかけてくれた言葉や時間、
面会できなくても届けてくれる皆の思い、
きっとそれらのおかげで奇跡的な回復ができたんだと思う。
表現しきれないけど、本当に本当に感謝としか言いようがない。
目安の期間が過ぎ、先生から宣告の時、
「これからは車椅子で生活していくことになります」
付き添いの母親が悲しい顔をした・・見てないけどそう感じた。
自分は笑顔で答えた「大丈夫です!」と。
先生は予想外に明るいねと戸惑っていた。
理由はすごくシンプルだった。
歩けないショックより、大切な人たちが悲しんでいる方が辛いからだ。
自分は元気に、皆を安心させる、むしろ元気過ぎて心配なぐらいだと言われるようになろうと思った。
強がりと言われれば強がりなのかもしれないが、全然無理に思っているわけでもなく、
自然とそう思えた。
そう思わせてくれたという表現の方が正しいか。
最初に書いたが、当時高校4年生
今まで一緒に頑張ってきた友達と一緒に卒業したいと希望
そのために病院の先生や学校の先生・友達が動いてくれた
最初の結果はどっちもNO
病院としては、入院中・コルセット装着中・長時間座っているのが辛い・定時制なので通学が夕方から帰宅時間は消灯後・車椅子になり学校の設備が不十分などなど。
学校は車椅子の受け入れ経験は無く、設備も不十分・非がある事故・病院の考えを重視などなど。
それでもまだ担当医や先生や友達は動いてくれていた。
ある日のリハビリ中、担当医が嬉しそうに近寄ってきて「通学の許可が出たよ~」と言った。
とても軽く言ったがきっと色々がんばってくれたんだと思う。
もちろん学校の許可が下りるのが条件だけど、
ある日学校の先生がこう言った。「クラスの仲間らが頑張ってくれたぞ、学校来るか?」
もちろん仲間だけでなく先生がたもかなりかなり頑張ってくれたと思う。
学校は古い学校で土足の学校、もちろんエレベーターも無い。
教室は2階。
工業だから各実習で色々な実習室への移動も多い。
車椅子だと普通に考えると無理だ。
その全ての階段移動をクラスメートや先生が車椅子ごと持ち上げて、
上げ下げ運んでくれると言うのだ。
悪いという気持ちももちろんあったが、「行きます!」と即答した。
そうして、異例の入院中の病院から学校への通学が始まった。
親や姉が病院と学校の車移動を毎日してくれた、
定時制は皆昼間働いていて、仕事場から直で来る人がほとんどなので、ご飯は1階に食堂があり、そこで食べる。
ただ、混むし、そのためだけに階段の上げ下ろしをしてもらうのも申し訳ないので、
2階の教室まで友達に特別持ってきてもらい食べていた。
しば~らく病院食ばっかりだったので、そこの食事が今までで一番うまく感じた!
9時に学校が終わり、病院まで車で送ってもらう。
このとき、よくマックでマックナゲット買ってもらってたなぁ。
病院食苦手だったので、外の世界の食べ物がおいしくておいしくてしょうがなかった。
病院に着くのは21時半過ぎ、消灯が21時なので、病棟は真っ暗で超静か。
その時は大部屋だったので、しず~かにベッドに戻った。
夜型でなかなか眠れなかった自分は、
窓際だったので星空をずっと見ていたり、
ナースに許可を得て電話コーナーに行って彼女と電話したり、
そのついでにこっそり病院を抜け出して空を見たり、
病院の中を冒険したりしていた。
そして省略するのはものすごく申し訳ないぐらい皆に助けられ、無事、現役卒業できた。
ちなみに単位はかなり厳しかったのですが、事故が夏休み直前ということもあり、
夏休みの分、助かりました。
退院して始めたのは仕事探し。
少しでも早く皆を安心させたいと、恩返しがしたいと思っていた。
それぞれがものすごく長い話になってしまうので、ものすごく簡単に書きますが、
・就職活動で断られまくる。(150、60件までは数えたがそれからもいっぱい受けた)
・障害者職業訓練センターでPCを教わる
・そこの紹介で車関係に就職
・数年後に退職し、事務ではなく、手に職が付く仕事探しをする
・なかなか見つからず。
・高校時代の恩師に声をかけてもらい、子供たち向けに器械体操教室を開くNPOの手伝いをする。
・NPO内部分裂により、粘るも退職
・益子焼き窯元の方のところに通い、修行(お試し)させてもらうも、やはり車椅子対応の設備ではないので、3日で終わる。
・中学時代サッカー部後輩に声をかけてもらい、現在働いている土木会社に入る。
・PCを中心に事務(書類作りなど)やホームページ作製などをやる。
・知り合いの選挙活動を助っ人として手伝ったりもする。
という感じです。
一回、1つ1つを書いてたら長くなってしまったので短く書き直したのですが、それでも多いですね。。
現在は”結婚=家を建てる”ということでコツコツがんばっています。
自分には時間が無いと思っているので、少しでも早く態勢を整え、子供を作る準備をしたいですね。
もうちょっと会社の力になり利益を出し、給料が上がるようにがんばります。
この10年、ここには書ききれないぐらい色々なことがありました。
これから10年はどうなっていくんでしょう。
子供は生まれているでしょうか?
どんな家に住んでいるのでしょうか?
願わくば、笑っていることを。
願わくば、笑わせていることを。