風邪が吹けば桶屋が儲かる? | ふれあいと癒しの交響曲(名古屋/京都/気功/教室/講習/和気信一郎)

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気功の理論や教室のこと、日々のことなどを書いています



(一)
 「風が吹けば桶屋が儲かる」とか「わらしべ長者」のように、釈尊が言うまでもなく、僕たちの人生(年月の経過)は、因果因縁、即ち、その時々の条件とそれへの取り組みによって決められていく。
 それを運命と感じる人も居るだろうし、神の思し召しだと考える人も居るだろう。
 いま、僕がこの場に居て、こんな暮らし方をしていられるのは、つまり、こんな人生を歩んでいられるのは、長い年月の節目節目に僕の身に起こってきた様々な条件によって方向付けられてきたという訳だ。
 その条件の中でも、視力の変化(悪化)は、かなりの大きな条件であったことは間違いないだろう。

(二)
 僕は生まれながらに弱視という視力障害があった。
 だから、「見える」ということがどんなことなのか、経験がないので全く判らない。
 両目で見るから、その角度の差によって物が立体に見えるというが、元々片眼の僕には立体に見えるという意味も解らない。
 片眼の場合は、ベタの写真のように平面的に見えると言うが、理論的にはそうであれ、写真でも絵画でも、遠近は判るように、僕にも遠近感はある。
 しかし、そんなことはかなりの年月が経ってからわかったことで、左の目が見えないということは気づいていたかも知れないが、それ以外は小学生の高学年になるまでは気づきもしなかったのだ。
 当時は右目だけだが、0.3低度はあったようで、普通に本を読んだり遊んだりするには不便がなかったし、(自分で言うのも烏滸がましいんだけど)頭は良かったみたいで、学業も割と好成績だった。
 だから、中学に進学する時に、担任の先生は両親に盲学校への進学(?)を薦めたけれど、両親は普通に地元の中学に進学させてくれ、おかげで、和歌山県内では優秀な進学高校にも入学でき、更に大学にも進学でき、大学卒業までは普通に過ごして来たように思う。
 大学は名古屋にあったので、18才の時に名古屋に出て来て、その大学でパートナーに巡り会い、大学卒業後に結婚し、60才の時にパートナーには先立たれたが、それでも、割りと幸せに今日まで、名古屋にそのまま居着いている。

(三)
 大学時代に視力は少し低下したようだが、新聞や単行本は未だ読めていた。
 ただ、就職の時に、人生初めての躓(つまづ)きが訪れたのだ。
 名古屋市職員の採用試験は、視力が足りないという理由で門前払いに遭ったし、児童養護施設などへの就職も、自動車の免許が無いという理由で拒否された。
 仕方なく、大学にあった制度を利用し、ゼミの担当教諭の計らいで〔研究生〕という立場で大学に残り、四年生のゼミの面倒を見ていた。
 その秋に、名古屋近郊にある紡績会社の企業内高校の臨時教員の就職が決まり、僕は大学を後にした。
 そして、その高校への就職のための提出物であった健康診断書をもらいに行った病院で、僕が(両親も)知らずに抱えていた病が発見されたのだ。
 それが、進行性の血管腫で〔40才くらいまでしか生きられない〕という〔しの宣告〕とも言うべき病であった。
 そして、就職して二年後、日本全体が石油ショックに見舞われ、その高校を経営していた紡績会社そのものが倒産し、僕も他の先生や生徒も職や学業を奪われたのである。
 僕が鍼灸の道に進んだのはそれからであった。
 既に、矯正の利かない視力は0.1低度に落ちていた。
 既に結婚し、長女は生まれていたが、その娘の通う保育園の父母の中に鍼灸院を営んでいた人が居て、僕はそこで働かせてもらい、そして、鍼灸を学ぶ学校に入学したのだ。
 そこが愛知県立名古屋盲学校の高等部専攻科である。
 僕の歳は既に27才になっていた。
 中学から盲学校に通っていれば、18才で、その場に立てていた訳だが、遠回りをして大学に行ったお陰でパートナーにも巡り会えたし、科学的な思考も民主的な精神も身につけることが出来たと思う。
 鍼灸師の免許を取得した僕は、1979年に名古屋市内で鍼灸院を開設し、2015年まで鍼灸師としての活動を続けた。
 30才からであった。
 視力は、既に0.1を切り、0.05辺りに落ちていた。
 しかし、未だ自転車には乗れていた。
 鍼灸師になる以前から共同保育所の活動はしていたが、っそれからは、それに加えて、学童保育所や商工業者の団体である民主商工会の活動など、目は回らなかったが、それに誓い程に走り回った。
 そして、〔魔の40才〕が訪れたのだ。
 死にはしなかったが、3か月ほど体が思うようにならないような症状が続いた。
 そこからである、僕が気功の世界に飛び込んだのは。

(四)
 気功の世界に飛び込んでからの僕の人生は一変したと言っても過言ではない。
 鍼灸師になってから、走り回っていたとは言え、3か月に一度ほど、周期的にガス欠状態になって、二、三日寝込んでいたのだが、それがピタッと亡くなったのだ。
 そして、教員をしていたことや鍼灸師であったことのおかげか、気功の門を叩いてから1年半後には〔講師/指導員〕として、カルチャースクールで気功の講座を担当させてもらう立場になったのだ。
 それから35年以上、気功の〔先生〕を続けている。
 2001年からは、卒業した名古屋盲学校専攻科にて非常勤講師もさせてもらい、鍼灸院を辞めた2015年まで、鍼灸の先生、気功の先生、盲学校の先生と、三つの仕事を続けることになった
 その間に、1999年に父を、翌年に母を亡くし、更に2008年にはパートナーを亡くしている。
 パートナーは、突然、肺ガンの第四ステージが宣告され、八ヶ月の闘病生活ではあったが、その頃は、未だ自転車に乗れていたので、僕の病院通いも看病も支障なく行なうことが出来た。
 その八ヶ月の取り組みは〔かぁちゃんありがとう〕という単行本として残っている。
 パートナーは一月に亡くなり、その年の夏に、僕は緑内障になり、視野がグッと狭くなると同時に、視力も0.02以下に落ちてしまった。
 自転車には乗れなくなったが、それでも〔気功の先生〕は続けられた。
 それが、2023年の7月に、病院にも行っていないし、検査もしていないので確かではないが、症状的に普通の風邪ではなく、三週間ほどの倦怠感が続いたので、多分、コロナに感染したと思うのだが、そこから再び視力が悪化し、2024年の五月の連休以降は、1m先のものさえぼやけて見えない程になり、やっと歩けるくらいになってしまったのだ。

(五)
 長々と書いてしまったが、僕の視力の悪化は、必要に応じたように、必要な時点で悪化を留めながら進行して来たように思う。
 視力が0.3もあったおかげで、大学にも行けたし、そこでパートナーにも巡り会えた。
 視力が0.1低度に落ちたおかげで(?)就職は出来なかったが、盲学校で(授業料なしで)鍼灸を学ぶことが出来た。
 生まれながらの視力障害の原因ではないかと思われる病のおかげで、40才から〔気功〕の世界に入ることも出来た。
 自転車に乗れていたおかげで、パートナーの看病も支障なく取り組むことが出来た。
 気功の先生という仕事のおかげで、殆ど見えなくても、後期高齢者になっても仕事(?)は続けておられる。
 僕が、いま、ここでこうして生きて居られるのは、流れに乗って下っていく渓流下りのように、視力の悪化という条件の中でも、時々の変わりゆく景色を楽しみながら進んで来たからかも知れない。
 僕が学んだ大事なことは「流れに逆らわないこと」、「その場で出来る最大限の力を発揮すること」かな?
 以上、因果因縁の年月の話でした。