【静観塾・29/唯物論的な気功の探究、それが〔ふぁんそん掌〕だ! | ふれあいと癒しの交響曲(名古屋/京都/気功/教室/講習/和気信一郎)

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【静観塾・29/唯物論的な気功の探究、それが〔ふぁんそん掌〕だ!


(三)
 「気功そのものに対する考え方というより、気功の練習方法や練習に対する考え方として、マルクスの唯物論的弁証法は、それを科学的なものにしてくれたと私は考えています。
 それを陰陽論的な視点や無常論的な視点に置き換えても理論上問題はないと思うんですよね。」
 志津の問いに私は語り始めた。
 「まず、大事なことは気功的な動きも気の感覚も、あらゆる練習は固定的に同じところに留まってはいないということです。
 よく、出来ませんとか解りませんなどと仰る方がいるんですが、それは、その時点での状態であって、固定的に出来ないとか解らないのではないんですね。」
 私の話に、
「出来るところまで、解るところまで練習出来ていないということなんですね。」
と、志津が噛みしめるように言った。
 「産まれたばかりの赤ちゃんが立って歩ける訳がないんです。
 寝返りが打てるようになり、ハイハイ出来るようになり、つかまり立ちが出来るようになって、初めて歩けるようになる訳ですね。
 ですから、気功も、それぞれの習練の段階で、出来ない、解らないと諦めてしまっては何にもならないんですよね。」
 「私、先生の本で読んだのかなぁ、〔水は沸かし続けなければお湯にはならない〕という言葉が腑に落ちて、解らなくても、方向を見定めて練習していけば、必ず解る時が来るって思って練習しているんですが、それが〔無常〕とか〔弁証法〕とかということなんですね。」
と、裕史が確信に満ちた顔を私に向けた。
 と、麻由がいつになく真剣な表情になって訊いた。
 「先生、全てが動いていて発展していくという弁証法でしたっけ、それは何となく解るし、だから私もいつかはサナギから綺麗なアゲハチョウになりたいとは思っているんだけど、その言葉の前に付いていた唯物論的でしたか、それってどういうことですか?」
 「そこは私も訊きたかったところで、唯物論と言うと、何だかみんな物質的に考え、心とか思いとかの感情が無視されているようで、取っ付きにくいんですが…。」
と、志津が言葉を重ねて来た。
 「そうですねぇ、唯物論という言葉には心の豊かさは感じられないかも知れませんね。」
 そう私は言い、話を続けた。

(四)
 「唯物論に相対する言葉を観念論と言います。
 その観念論と唯物論の大きな違いは何かについてお話しますね。」
 三人の真っ直ぐな目が私に注がれていた。
 「観念論の基本ですが、、この世も、この世にある全てのものも、絶対的な創造主によって作られ、あらゆる出来事や事象はその創造主が決めているという考え方、それが観念論の基本です。
 ですから、私たちが何をするか、どんな人生を歩むかも、全て創造主の思し召しだという訳です。」
 「それって神様のこと?
 私の運命は決まっているってこと?」
と、麻由の声が飛び込んできた。
 「運命が決まっているのなら、努力なんかする必要はない訳で、寝転んでいれば良いんだよね。」
と、裕史が言うと、
「だめだめ、神様は見ていらっしゃるから、怠けている人には道は開けて下さらないわよ!」
と、志津が笑って言った。
 「その創造主の存在を信じるか信じないかは、ある意味信仰の世界ですから、それぞれの心の問題として置いておけば良いんですが、それでは気功の練習法の科学的な解明は出来ません。
 それに対して唯物論は、物事の現象の事実から出発します。
 物事の現象の一つ一つをよく観察し、そこにある共通項や法則性を見出していくんです。」
 「具体的な例で解説お願いしまーす!」
 麻由は素直な子で、解らないことを解ったような顔をしていることは出来ない。
 解らないことはやり過ごせないのだ。
「例えば〔気のボール〕という感覚でお話しましょうか。」
 「うん。」
と、麻由が頷いた。
 「私も最初は、というより、気功を習い始めて半年くらいは〔気のボール〕の感覚は解りませんでした。
 先生や先輩たちは、ビリビリするとかジーンとするとか掌が温かくなるとか色んな表現で教えて下さるんですが、両手を近づけたり遠ざけたり、ボールを挟むような手の形を教えて下さるだけで、どうすれば〔気のボール〕ができるのかという説明はなかったんですね。」
 ある人などは、そこに丸い空気があるようにイメージして下さいなどと言うんです。
 それは、その気になるということで、それも観念論であって、決して科学的な説明ではないんですよね。
 私も気功の世界に入りたてだったので、気に対する理解も気の感覚も無知で、しばらくは戸惑いの中にいた訳です。
 ところガ、ある時、唯物論的な発想を思い出したんです。
 事実からしゅっぱつしよう、とね。」
 「事実とは?」
 麻由が口を挟む。
 「先輩たちが共通して喋っているのは、掌がビリビリする、ジーンとする、温かいという言葉です。
 それは、所謂、その気になっているということではなく、実際に掌がビリビリし、ジーンとし、温かくなっているのでしょう。
 それが事実で、その事実から出発するという視点で考えたんですね。
 その感覚は、イメージではなく、皮膚の感覚だとね。
 皮膚の感覚だから、それは皮膚を感じる神経を通して脳に伝えられている訳です。
 だから、何らかの取り組みをして、掌の皮膚に、ビリビリとかジーンという感覚や温かいという感覚という日常にはない変化を起こせば良いのではないか?と考えたんです。」
 「その変化とは何だったんですか?」
 裕史の声が飛んできた。
 「名前は言えませんが、日本在住の高名な中国の気功師の講習を受けた時、彼は突然、参加者に対して、両手を強く叩き合うように拍手して下さいと指示したんです。
 強くパチパチパチとね。
 一緒にやってみましょうか。」
 そして、私たちが部屋に響き渡るような強さで拍手をした。
 「はい、終わって!
 そのまま両掌を開いたまま、掌の感覚を味わってみて下さい。」
 「わぁー、ビリビリしてきたー!」
 麻由が叫んだ。
 「痛い感じからジーンとする感覚に変わって来ますね。」
と、志津が言う。
 「これが気の感覚ですか?」
 裕史が首を傾げて言った。
 「そうなんですよね。
 これが気の感覚、掌の感覚だとすれば、これは掌の皮膚に如何なる変化を与えたことになるんだろうと考えたんですね。」
 「先生、いいですか?」
と、志津が解ったと言うように手を挙げた。
 「強く叩くことで、掌を刺激すると、皮膚は緊張します。
 そして、それがなくなってしまうと、掌の皮膚は弛緩してきます。
 皮膚が弛緩してくるということは、皮膚がゆるんで血の流れが良くなってくる訳ですから、掌は温かくなります。
 その時、つまり、血管が膨らんでくる時の感覚がビリビリしたりジーンとしたりしているんではないでしょうか。」
 「そうかも知れませんね。
 だから、つまりは、一度、皮膚を緊張させ、その後に弛緩の状態に持って行けば良いと考えた訳で、そこから掌の皮膚を伸ばしたり緩めたりすることで掌感覚を体感していく〔ふぁんそん掌〕という技法が作られて来たんですね。」
 「そのお陰で、私、簡単に〔気のボール〕が作れるようになったんだ!」
と、麻由が気のボールを作りながら大きな声を出し、あとの二人も〔ふぁんそん掌〕の技法で掌感覚を確かめていた。
 「唯物論的というのは、こういうことなんですよ。」
 「そうか、イメージするとか、その気になるとかというんではなく、ビリビリするとか温かくなるとかという事実から出発して、それがどのようにして起こっているのかを科学的に探究する、それが唯物論的っていうことなんですね。」
 裕史は納得し、理解したようだった。



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