【どの道を歩くのかは自分で決める】 | ふれあいと癒しの交響曲(名古屋/京都/気功/教室/講習/和気信一郎)

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気功の理論や教室のこと、日々のことなどを書いています



(一)
 僕の目の前に現れる道は一つではありません。
 何か一つの条件が変わるだけで現れる道も変わってしまいます。
 条件が変わることで、それまでとは違う道が幾つも目の前に現れ、僕はその中の一つの道に脚を踏み出して行くことになる訳です。
 そして、その道を歩く中で、新たな条件が出現し、また幾つもの道が用意されることになるんですね。
 こうして人は何度も何度も分岐した道の一つを選んで歩いて行く訳です。
 しかし、僕たち人間という奴は未練がましく、訣別した(せざるを得なかった)別の道に執着し、愚痴をこぼします。
 あの時、あれが無かったら…、あんなことが起こらなかったら…と、絶対に戻ることは出来ない過去の出来事に囚われてしまうんですね。
 その執着は、いま自分が歩いている道を否定することになり、前を向いて足を踏み出すことを妨げてしまいます。
 自分の歩く道は、そこにしか無いのにも関わらず、それ以外の道に心が奪われてしまうんですね。

(二)
 僕は視覚障害者として産まれました
 全盲ではなく、片眼は失明していても、もう片方の目は弱視(矯正の利かない0.3程度)だった為に小学校は町内の小学校に通うことが出来ました。
 中学に進学する時に、担任の先生は、授業に着いていけなくなるからと、僕を盲学校に行かせるように両親に告げたらしいんですね。
 しかし両親は、僕の頭の良さ(?)を信頼してか、それを拒み、僕は町内の中学に通い、高校は、当時済んでいた紀南(和歌山県の南半分)の中の一番の進学校(普通科)に進学し、名古屋の福祉関係の大学に入学することが出来ました。
 そこでパートナーになる彼女と知り合い、僕は大学時代を勉学に学生運動に恋愛にと、楽しく有意義に過ごすことが出来ました。


(三)
 ところがです、大学を卒業したことはしたんですが、就職先が無かったんですね。
 名古屋市などは、視覚障害ということで、受験さえさせてもらえませんでした。
 僕は、児童施設や福祉の施設で働きたかったんですが、何処も車を運転できることが条件になっていた為に、採用されることは無かったんですね。
 その為に、卒業後は、後輩たちのゼミの面倒をみるようにと先生に仰せつかり、〔研究生〕という肩書きで大学に残ることになりました。
 秋になり、突然、求人がありました。
 名古屋近郊の紡績会社の企業内高校で教員を募集していたんです。
 何でも一人の女性教員が産休に入り、そのまま退職するということでした。
 僕は、教務主任という人の面接を受け、その高校に就職することになりました。
 その時なんです、僕に重大な病があることが解ったのは…。
 就職先の学校に提出するための健康診断書をもらいに行った病院で、ある医師が、その病気の疑いを見つけたんです。
 僕は病院に呼び出され、一週間の検査入院の結果、〔進行性の血管腫〕の一種だと診断され、僕の命は四十才くらいまでだろうと〔命の宣告〕を受けたんです。
 そして、就職したその三年後に紡績会社は倒産し、高校も無くなり、僕はまた無職になってしまいました。
 大学を卒業して二年後に僕は大学の時から付き合っていた人と結婚したので、その時には長女も産まれていました。
 パートナーは、名古屋市の公立保育園の保母(保育士)で、収入は安定していました。
 僕は、バイト的に本のセールスをしてみたものの、一生の仕事にするようなものではないと考え、他に就職できるようなところもなかった為に、鍼灸師になる道を選ぶことにしたんですね。
 その為に、何と、中学進学の時に背を向けた盲学校に入学し、三年鑑、鍼灸の勉強をすることになったんです。
 盲学校は授業料などが無償であったおかげで、パートナーの収入だけでも何とか生活は出来ました。
 しかし、僕の視力は0.3から0.1に落ちてしまっていました。

(四)
 盲学校を卒業し、国家試験を受け、〔はり師、きゅう師、あんま、マッサージ、指圧師〕の三つの免許を取得した僕は、卒業と同時に居住地ないに鍼灸院を開設し、鍼灸治療の仕事に入りました。
 31歳の時でした。
 鍼灸治療に併せ、学童保育所の父母の会や業者団体の役員も引き受け、僕の走り回る生活が始まりました。
 勿論、医者の言った持病の為でしょうが、時々燃料切れのようにダウンはしていましたが、それでも飛び回る生活は十年近く続きました。
 そして、魔の四十才がやって来て、僕は本格的にダウンしてしまったんです。
 それからなんです、僕が気功の道に入ったのは…。

〔五〕
 気功の道は順調でした。
 入門後、一年半で一つの教室を担当することになり、それが名鉄カルチャーセンター(旧:熱田の森文化センター)で、直ぐに、中日文化センター、名鉄の二つ目の教室、地域での同好会や僕自身が主催する《癒しの学校》、《気功塾》などが立ち上がり、一週間、ほぼ毎日のように気功の教室があり、鍼灸治療と併せて、休みは月に一度ほどになり、その休みも、月に一度、気功の仲間たちを〔癒しのスポット〕に案内するつどいの下見などに費やされ、正に朝から晩までフル操業の日々を送ることになりました。
 2000年からは、鍼灸を学んだ盲学校に於いて鍼灸や気功の授業を担当する非常勤講師の仕事も加わり、僕は、鍼灸の先生、気功の先生、盲学校の先生と三つの先生を掛け持ちする生活に入ったんです。

(六)
 2007年の5月、突然、パートナーにステージⅣの肺腺ガンが見つかり、僕はカルチャー関係以外の気功教室を辞めざるを得ませんでした。
 看病に入るためです。
 そして、翌年の一月にパートナーは他界し、僕は独り者になってしまいました。
 しかも、その歳の五月に、突然の緑内障に見舞われ、手術はしたものの、視力は0.02~4辺りにオチてしまいました。
 その為もあって、2015年に僕は盲学校と中日文化センターを辞めました。
 目が霞んできて、それに対処する為の治療によって、更に霞がヒドくなり、見えないなりに、見るモノに焦点をあてて、それなりにクッキリ見えていたものが、何処にも焦点が当てられず、全てがボーッと見えているくらいに悪化してしまったからです。
 今では、足元が何となく見えているくらいの視力しかありません。
 しかし、全てのカルチャーの気功の講座は無くなりましたが、気功の教室も名古屋で四つ、四日市で一つ、京都で一つ…と持たせて頂いており、まだまだ期待もされているようです。

(七)
 僕のことをダラダラと書いてしまいましたが、人生の岐路は、その条件によって、自分の意思とは関係なく、突然変えられてしまうことがあります。
 それぞれの岐路に於いて別の道を選択できたかも知れないんですが、選んでしまえば後には戻れません。
 戻れない以上、自分が選んだその道を逞しく、力強く歩いて行く以外にはないんですね。
 そして、その歩きの中で、また違った条件がやって来て、道の変更を迫られるでしょうが、それでも、やはり自分の足を何処かに踏み出して行く以外にはないんです。
 それが自分自身の人生を決める道なんですからね。