肩書きなんかいらないんだっていう話。
いくら勉強ができたとしても、
それだけならば、
パソコンがあれば、
そんなものは必要ない。
いくら知識量があったとしても、
ただ知っているだけなら、
辞書さえ使えれば、
こと足りてしまう。
日本では、
いわゆる学力の高さが、
さも人の全てのように、
推し量られるけれども。
そんなもの、
実生活において実践されなければ、
ただただ人より勉強ができるだけ。
生きていくってのは、
もっと総合的な力が必要なわけです。
物理学、科学、化学が分からなくても、
火は起こせる。
生物学が分からなくても、
体を動かせる。
事実が大事なんだ。
結果に結び付かないなら、
それは、
一種のマスターベーション。
どこの高校に、大学に入ったって、
それ自体は、
偉くもスゴくも、何ともなくて。
世の中に出れば『だから何?』。
でも、
人は肩書きを求めるし、
肩書きで人を判断しようとする。
実に、愚かしく、滑稽だ。
子ども全員が、
東大に入ったら、
それは学力は高いだろう。
だけど、
きっと他の色んなものが、
抜け落ちてしまうんじゃないか。
人生は多種多様で、
だから面白くて、
自分にないもの、分からないものがあるからこそ、共存していくんだ。
頭なんか、よくなくていい。
肩書きなんか、もたなくていい。
誰かを慈しむことができて、
誰かを愛することができて、
誰かのために動くことができる。
それだけあれば、
それができるなら、
きっと周りがその人を、慈しみ、愛し、支えてくれることだろう。
それでいいと思う。
ブログネタ:10年前、今の自分想像できた? 参加中私はできなかった派
仮定の話はしていないっていう話。
10年前と言えば、私は高校生。
まだ、何も知らなかった。
自分のことさえも。
まして今を想像することなど、
土台無理な話です。
あの頃の自分は、
よくも悪くも空っぽで、
白紙の状態だった。
今にして思えば、
『こうすれば良かった』
と、思えることもあるのだけれど、
かといって、
じゃあ今の自分を想像してたら、
何か変わっていたのかと思えば、
きっと、そうではなくて。
様々な偶然が重なることで、
今を形作っている。
必然的なものになる。
蓋然性なんて、
後付けの理論なんだろう。
もしかしたら、
違う未来があったとして、
俺がそれを選んだかといえば、
答えはノーになるんだと思う。
なるべくして、
この10年があったんだと。
だとすれば、
またこの先の10年が、
どうなっていくかなんてのは、
分からなくて当たり前で、
だから、分からなくていいんだと思う。
きっと、
偶然の繰り返しが、
積み上げられていく中で、
必然的なものに巡り合う。
どんな道が待っていたとしても、
俺が俺であるってことは、
そうそう変わりはしないのだ。
きっと、
歳をとろうとも、
環境が違おうとも。
決めるのは、
他ならぬ自分なのだから。
ブログネタ:忙しいのはいいこと? 参加中私は悪い派
アンバランスなんだろうっていう話。
忙しいってのは、
バタバタしていて、
落ち着かない様子を指すのでしょう。
或いはやることがたくさんあって、
息つく間もないような状態を。
もちろん、
これはある意味で、
いわゆる『嬉しい悲鳴』のような、
喜ばしいことでもあるわけです。
しかし、
忙しいの反対とは何だろうか。
そういう方向から、
鑑みた場合に、
きっと違った面もあって。
前述したように、
『忙しい』とは、
社会通念上、
状態、様子を表している言葉です。
果たしてでは、
対義語となるものは、
『暇』なのでしょうか。
言葉が先なのか、
文字が先なのかは、
分かりませんが、
使われていく内に、
言葉本来の意味から、
変化していくことがある。
忙しいというのも、
実はそうなのではないか、
と、思う部分がありまして。
字を見れば、
『心』を『亡』くすと、書くわけです。
これはとてもではないですが、
誉められた状態とは呼べませんね。
いくら嬉しい悲鳴だろうと、
心までも浸食してしまうレベルは、
私は度が過ぎていると思うのです。
字を考えた方は、
どのような気持ちで、
このような文字を当てたのだろうか。
息つく暇もない状態のあまり、
心が抜け落ちてしまっている。
と、憂いていたと考えるのは、
私の過剰妄想でしょうか。
『忙しいのは、いいこと。』
という発想そのもの自体が、
実に『日本的』な言葉だ。
勤勉さ、真面目さ、
こういったものが、
一種の美徳として捉えられ、
半ば強迫観念のようなものにさえ、
なっているのではないか。
忙しいのにも、
もちろん、種類はあるわけです。
仕事かもしれないし、
プライベートなことかもしれない。
しかし、
いずれの場合にせよ、
私にはどうにも、
忙しいという言葉や字から得られるイメージは、あまり良いこととは言いがたい。
