わすれないとはっていう話。
日にちはまたいでしまいましたが、
あの日から4年も経つ。
テレビでは、
盛んに当時の映像が流れ、
色んな人が振り返り、
それぞれに語る。
いまだに復興は進まずにいる。
そう言われながら、
しかしながら、
だからといって、
誰が何をするわけでもなく。
建前の、さも聞こえだけはいい、
正義や善を並べ立てるだけで。
あの日、目の前で助けを求める手が、
伸ばせば届くはずの距離が、
永遠の別れになった人がいる。
そんな経験を乗り越えて、
必死で、ただただ今日明日を、
何とか過ごしてきた人々がいる中で。
それでもまだ、
臭いものに蓋をして、
見えるものを見えないふりをして、
事なかれの横行。
口先だけの弔い。
上っ面だけの偽善。
悲しみの涙の津波は、
いまだあの街から、
決してなくなってはいないのだと。
方向性の見えない、
保身から生まれる、
誰かへの押し付け。
それが、
日本では復興と呼ばれている。
責任をとるのは、
いつだって、被害者自身で。
心が痛みさえすれば、
誰かを思いやっていると、
辛さを共感しているなどと、
まるで茶番。
同情で、死んだ人が甦るのか。
微々たる補償金で、かつての団欒が戻るのか。
それで、復興はおしまいなのか。
投げ掛けられているのは何か。
津波の恐ろしさですか、
自然の脅威ですか、
政治家の体たらくですか、
金の問題ですか、
原発の取り扱いですか。
そんなもの、
人間の都合でしかないですよ。
まだまだ主観ですよ。
傲りきってます。
人間そのものの、
在り方を問うているんです。
ウルグアイの首相は、言いました。
『貧乏とは金をもっていないとか、そんなことじゃあないんだよ。
既に十分すぎるほどもっているのに、自分だけまだまだもっと、と求め続けてしまう心の浅ましさなんだよ。』と。
まさに日本人には、
痛烈な言葉であります。
同じことが、まさにこの震災にも言えるんではないかと思うんです。
安全策を考えることは、
至極自然な発想だとは思う。
しかし、
それはあくまでも、
危険回避のみに特化させなければ、
恐らくはまた同じことの繰り返しでしょう。
堤防を高くするとか、
安全管理の技術向上だとか、
そうやって、見た目ばかりの
『今よりもっと』
を、人間が求め続ける限り、
きっとまた、
地球は人間を滅ぼしにくる。