おじさん(父の弟)がすごい人でした。
昭和5年生まれ。
当時の小学校? を出てからは時節柄、少年用の軍関係の学校に行ったらしい。
そして戦後は、左官業の父親の弟子として一緒にセメントなどを塗っていたのですが、
なぜか、弁護士になることを決意。
人より数年遅れて定時制高校に入って勉強を始め、
東京の夜間大学に進学、ほどなく司法試験に受かったのです。
苦学、という言葉を、体現した人です。
トンビが鷹を生む、かもしれません。
いろいろな逸話を聞いています。
子どものころはガキ大将で、あまりに悪さをしていたので
勉強は一番なのに、卒業式の総代にしてもらえなかった、と
当時の同級生が笑い話にしていました。
先生方はおじさんの能力を認めながらも、
いろんなしめしがつかないので総代にするわけにいかなかった、ということだったそうです。
友達にも先生にも好かれた人だったようです。
左官の腕もよくて、人付き合いにもたけていて、
頭が良い人。
何回転生しようと、法曹界などには縁もゆかりもない家庭だったのに、
なぜに弁護士を目指したのか。
当時の社会情勢などで、義憤を感じたのかもしれませんが。
本当に頭の良い人は、どんな環境にあってもおのれの性質に適した道を選ぶのでしょうか。
そして、
貧しくても、意思さえあれば助けるものもいて、
真面目に勉強すれば結果を得られる時代だったのです。
その人の名前を書いたお弁当箱が出てきました。
○号室 〇田〇男
と書いてあるので、どこかの寮などにいたときのでしょうか。
質素でありがたい感じがします。
このすごいおじさんは、弁護士になってから、
もちろん精力的に弱きを助ける仕事をしていましたが、
なんという運命なのか、
40代という若さで、病気で亡くなったのでした。
父はもちろん親族中が嘆きました。
そんな父の数少ない遺品の中に、このおじさんへの追悼録がありました。
ライオンズクラブの方々の、哀悼の文章が載せられています。
おじさんは、子どものころから、たぶん今のことばでいうと
人たらし、な、魅力があった人のようです。
入院した病院の看護師さんたちにも大人気だったようです。
それなのに、幼子を二人、妻に託して先立ってしまいました。
その後、遺されたおばさんは子どもたちを育て上げました。
おじさんとおばさんと、いとこたちを誇りに思います。
父の数少ない遺品の中にこの追悼集を見つけたとき、
父にこんな誇れる弟がいたことが、
不詳の子としては、本当にうれしく思いました。