今の自分は、どれ程苦しいんだろう? | ここから見に来て。[旧Quem tudo quer, tudo perde.]

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ここは音楽のBlogでした。実際には節操無く何でも有りましたが、アメブロと相性が悪いようなので、他に書く事にしました。出来ればそちらを、よろしくお願いします。


私が生まれた1960年前後には、まだ明らかな貧富の差が存在していました。車の有る家無い家どころか、テレビや冷蔵庫の有無の差すら存在していましたし、食卓に並ぶものも勿論家庭格差が存在していました。日本はそれ以降経済の発展と共に国民総中流家庭と言う意識化のもと、それほどの格差が減ってきたように思います。

1960年代の後半以降に生まれた人は、物の有無ではなく、持ち物の価格や品質での差を口にして来ていると思います。「みんな持っているから」だとか、「~君が買ってもらった」などと言う言葉を使い、随分叱られた記憶が有りますが、それは「無」を「有」にしたいが為に子供なりの説得力で親に訴えていたのですが、今周囲で見られる欲望の方向は、「少」から「多」への希望や「低」から「高」への欲望の様な気がします。

勿論今の子供の事を言っている訳では有りません。過去に「貧」を経験した世代が大人になってさえそうですから、それ以降に生まれた人たちは、「有」は当たり前の事だと認識してしまっている気がします。話をしていても「貧」の状態が、「無」ではなく「有」なのです。

外国人の友人たちと話をしていると自分が子供の頃に経験した事や話にしか聞いた事の無い親の時代の生活を今現在もしている人たちが沢山居ます。
外国人と言うと情報のコントロールされたアメリカでの生活の事ばかりが話題になっている気がします。アメリカの貧富の差が酷いと言うよりもアメリカには貧富の差が存在するが、国民のほとんどが日本人の目からは貧に見える国が、沢山存在して居る事も自覚すべきだと思います。
そして『貧しくて可哀相な』彼らは、その事を悲しみとばかりには取っていないのです。

平均寿命が80近い国の一員として、コントロールされた情報に踊らされず、無駄に将来への恐怖に打ちのめされるのではなく、世界の中の一員としてのポジションを認識し、正しい欲望を抱く事が、未来への間違った選択をしない最良の方法ではないかと思います。

最近自動車の調子が悪く買い替えたいのだが、お金が無い為に中古車の購入を考えている私が、自らを説得する姿をおみせしました~(笑)。