クヌートの正統な後継者は、彼とエマの間に生まれたハーザクヌート(デンマーク語では「ハーデクヌーズ」)でした。1035年にクヌートが死去すると、デンマークの王位はハーザクヌートが継承したのですが、ノルウェーでは、クヌートにより王位を追われたオーラブ2世の子マグヌス1世が、クヌートの子で摂政としてノルウェーを統治していたスヴェンを追放して王位を奪還しました。さらにマグヌス1世は、スウェーデンと結んでデンマークに侵攻する動きを見せたことから、ハーザクヌートはデンマークから離れられず、そのため、彼の異母兄ハロルド(スヴェンの同母弟)がイングランドの摂政となり、次いで王位に就きました(ハロルド1世)。こうして北海帝国は解体しました。
ハロルドは1040年に亡くなり、ハーザクヌートがイングランド王位を継ぎます。彼は病がちであり、子供がいなかったことから、異父兄(エゼルレッド2世とエマの子)エドワードを後継者に定めて、1042年に死去しました。これを受けてエドワードがイングランド王(エドワード懺悔王)に即位したことで、デーン人の征服王朝は終焉し、アングロサクソン人の王朝が復活しました。
1066年、エドワード懺悔王が嗣子なくして死去すると、エドワードの妃エディスの兄ハロルド・ゴドウィンソンが、イングランド貴族から成る賢人会議により選出されて次の国王(ハロルド2世)に即位しました(一説によると、エドワード懺悔王は、死の床でハロルドを後継者に指名したとのことであるが、エドワード懺悔王は、当初異母兄エドマンド2世の子エドワード・アシリングを後継者と定め、その死後はその子エドガー・アシリングを後継者と定めていたのだが、イングランド貴族らは、エドガーは年少(当時15歳くらいだった)のため国王の任に堪えないと判断し、彼を排除してハロルドを推戴したとの説もある)。
しかしながら、ハロルド2世の王位継承に対しては、反対者が続々と異議を申し立てて兵を起こすこととなります。まず、ハロルド2世の弟で彼と不仲であったトスティが、王位を要求して反乱を起こしたのですが、鎮圧されてスコットランドに逃亡しました。次に、ノルウェー王ハーラル3世(マグヌス1世の叔父で、甥の死後王位を継承した)が、トスティと結んで、イングランドの王となるべく侵略を開始しました(ハーラル3世は、マグヌス1世が、ハーザクヌートとの間で、相互に相手の死後はその相続人となることを約束していたところ、ハーザクヌートが先に死去したことによりマグヌス1世がその地位を継承し、マグヌスの死により自らがその地位を継承したと主張した)。ハロルド2世は、スタンフォード・ブリッジの戦いでこれを撃破し、ハーラル3世とトスティは戦死しました。さらに、ノルマンディー公ギョーム2世(リシャール2世の孫)も、生前のエドワード懺悔王から自らの後継者たることを約束され(エドワードにとって、ギョームは母方の従兄(エマの甥)の子にあたる)、ハロルド2世はそれを守ることを誓約したにもかかわらず破約したと主張してイングランドに進軍し、ヘイスティングの戦いに勝利してハロルド2世を戦死させました。ハロルドの死を受けて、イングランド貴族の賢人会議は、エドガー・アシリングを新国王に選出したのですが、彼は戴冠する前にギョームに降伏し、代わってギョームがイングランド国王(ウィリアム1世)に即位して、ノルマン朝を開きました(いわゆるノルマン・コンクエスト)。
その後、エドガー・アシリングは、スコットランド王マルカム3世(エドガーの姉マーガレットの夫)やデンマーク王スヴェン2世(クヌート大王の妹エストリズの子)と結んで反乱を起こしたものの、いずれも成功せず、1074年に至って遂にウィリアム1世と和解し、アングロサクソン王朝の復活はなりませんでした。ただし、ウィリアム1世はアルフレッド大王の子孫(7世の孫)マティルダを妃に迎え、その間に生まれたウィリアム2世とヘンリー1世がイングランド王となり、また、ヘンリー1世はマルカム3世とエドガー・アシリングの姉マーガレットの間に生まれたマティルダを妃とし、その間に生まれたマティルダの子アンジュ―伯アンリがイングランド王(ヘンリー2世)となったことで、アングロサクソン王朝の血統も受継がれ、現英国王室に至っています。
(了)