ヴァイキング(ノース人)によるイングランド侵攻は8世紀末に始まります。当初は海岸地帯を荒らす程度でしたが、865年には、デーン人を中心とするヴァイキングの連合軍(「大異教軍」と称される)がイングランド征服に乗り出し、イースト・アングリア、マーシア、ノーサンブリアの各王国を服属させてイングランドの大部分を支配下に置きました。これに対し、最後に残ったウェセックス王国のアルフレッド大王はデーン人を撃退し、イングランドはデーン人の支配地域(デーンロウ)とウェセックス王国に2分されました。

 

その後もウェセックス王国とデーン人の間で戦いは続きましたが、次第にウェセックス側が優勢となり、927年にアルフレッドの孫アゼルスタン王がデーンロウを征服しました(これにより彼は最初の全イングランドの支配者となった)。アゼルスタンの死後、ヴァイキング勢が再びノーサンブリアを支配下に収めたものの、954年にアゼルスタンの弟エドレッド王がこれを奪還し、束の間の平和が訪れます。

 

しかし、980年以降、スカンジナビアのデーン人がイングランドの海岸地帯を襲撃するようになり、時の王エゼルレッド2世(エドレッドの甥エドガー平和王の子)は、デーン人に退去してもらう代償として「貢納金」(後に「Danegeld」と称される)を支払うこととなりました。また、デーン人が、イングランド襲撃の際、しばしばフランス北部のノルマンディー公国(いうまでもなく、ヴァイキングのロロによって建てられた国)を拠点としていたことから、991年にノルマンディー公リシャール1世との間で、ノルマンディーがイングランドの敵を支援する行為を控えることを約する条約を締結しました。しかしながら、リシャール1世の子リシャール2世が、イングランドを襲撃したデーン人を保護し、彼らがイングランドからの略奪品を公国内で売り捌くのを許すなどしたことから、エゼルレッド2世は、違約を理由として1000年から翌年にかけてノルマンディーに攻め込みました。リシャール2世はこれを撃退したのですが、その後、イングランドとの関係改善を図るため、1002年に妹のエマをエゼルレッド2世と結婚させました(いうまでもなく、エゼルレッド2世の意図は、この結婚によりデーン人を牽制することにあったのであるが、それにとどまらず、この婚姻は、後のノルマン・コンクエストの呼び水となるという大きな意味を持つことになる)。

 

この間、デーン人による襲撃は997年以降毎年繰り返され、その都度デーン人に支払われる「Danegeld」はイングランドの財政にとって大きな負担となっていました。これに業を煮やしたエゼルレッド2世は、1002年にイングランド国内のデーン人を大量虐殺しました(聖ブライスの日の虐殺)。これは、イングランド国内のデーン人が、国外から来襲するデーン人の手助けをしていると疑われたことによるものですが、エゼルレッド2世に対し、国内のデーン人が彼とその廷臣を殺してイングランドを乗っ取ろうとしていると吹き込んだ者がいたともいわれています。

 

デンマーク王スヴェン(英語名は「スウェイン」)1世は、その報復として(聖ブライスの日の虐殺の犠牲者には彼の妹夫婦が含まれていたとも言われている)イングランド襲撃を激化させ、多額の「Danegeld」を手にしたのですが、それに飽き足らず、1013年には自ら兵を率いてイングランド征服の師を起こすに至りました。そして、敗れたエゼルレッド2世がノルマンディーに亡命すると、その後を襲ってイングランド国王に就いたものの、翌年に急死し、彼のイングランド支配は僅か5週間の天下に終わりました。

 

スヴェンの死後、ヴァイキング勢やデーンロウの人々は、その子クヌーズ(英語名は「クヌート」。以下「クヌート」で統一する)を後継のイングランド国王に推挙したのですが、イングランド貴族らから成る賢人会議の決定により、エゼルレッド2世がイングランドに帰国して復位しました。これに対し、クヌートは、形勢不利と見て一旦はデンマークに撤退したものの、イングランド王位への野望は捨てず、1015年にイングランド侵略を開始します。翌年エゼルレッド2世が死去するとその子エドマンド2世(剛勇王)が後を継ぎ、クヌート軍に対して奮戦したものの、同年10月アッサンダムの戦いで決定的な敗北を喫し、クヌートとの間で、イングランドを2分し(エドマンドはウェセックスを領有し、クヌートはテムズ川以北を領有する)、相互に、相手が亡くなったときはその領地を相続することで合意しました。そして同年11月にエドマンド2世が急死した(暗殺説もある)ため、クヌートが全イングランドの王となり、翌年にはエゼルレッド2世の未亡人エマと結婚しました。その後、クヌートは、1018年にデンマーク王位に、1028年(1030年という説もある)にはノルウェー王位にそれぞれ就き、いわゆる「北海帝国」を築き上げました(これにより彼は「クヌート大王」と称される)。


(つづく)