下野烏山藩主(後に信濃飯田藩主)堀親昌は、右大臣三条西実条の娘(浄心院)との間に2男を儲けます。このうち長男親貞は、父の跡を襲って飯田藩主となり、次男実業は、叔父(母の弟)三条西公勝に引き取られてその養子となり、14歳で叙爵・元服すると院参衆に加えられて鳴滝家を建て、その後26歳のときに公勝の次男である清水谷公栄の養嗣子となり、同家を継いで正二位権大納言に昇りました。堀親昌は、和歌を好み、飛鳥井雅章、烏丸光広ら当時(江戸時代初期)の京都歌壇を主導する公家から指導を受けており、そうした関係から歌道を家職とする三条西家から夫人を迎えたのでしょうが、実業も父方・母方双方のDNAを受け継いだようで、武者小路実陰(実業の従兄の子)、中院通村らとともに霊元院歌壇の中心的歌人の一人として活躍しました(門人に香川宣阿、北村季吟らがいる)。また、熊沢蕃山に師事して陽明学を学び、蕃山門下の堂上四天王と称されたということで、かなりの俊英だったようです。なお、清水谷家は、西園寺公経(源頼朝の姪(妹の娘)を妻に迎え、親幕派公卿として承久の乱後の朝廷で権勢を誇った)の次男実有(正二位権大納言兼左大将)が建てた家(家格は羽林家)で、明治になって華族に列せられ伯爵に叙せられた堂上公卿家です。

 

以前、堂上公卿の家から大名家の婿養子(世子)となったものの、藩主になる前に廃嫡されて大名になれなかった細川興誠について書きました(こちらを参照)。清水谷実業のケースはそれとは逆になるのですが、細川興誠の場合とは異なり、公卿になることができたわけです。なお、明治になって、堂上公卿も大名も等しく華族に列せられてからは、旧大名家から旧公卿家に、あるいは旧公卿家から旧大名家に養子入りして家督を継いだケースはいくつか見られます(例えば、西園寺公望の婿養子として跡を継いだ八郎は最後の長州藩主毛利元徳の八男)。