江戸時代の大名の家格はいわゆる表高を基準として定められていました。表高とは、将軍から与えられた領地の穀物の生産力を米の生産量に換算した指標で、「加賀百万石」等の表記で知られるものです。この表高により、例えば江戸城における詰所(伺候席)が決められるなどして大名間の序列化がなされたのです。

 

明治新政府は、慶応4年(1868年)2月11日に新たな藩制を定め、諸藩を表高40万石以上の大藩、10万石以上40万石未満の中藩、1万石以上10万石未満の小藩の3つに区分して格付けを行いました。しかし、表高は江戸時代の初めに定められたものが基本的にそのまま維持されたため、その後の新田開発等による生産力の変動が反映されておらず実態との乖離が生じていました。そこで政府は明治2年2月15日付行政官沙汰により諸藩に対し、元治元年(1864年)から明治元年(1868年)までの5年間の租税収入(以下「現高」)の平均値を申告するよう命じます。そして明治3年9月10日付太政官布告により藩制を改め、各藩の現高を基準として15万石以上を大藩、5万石以上15万石未満を中藩、5万石未満を小藩とするという新たな格付けを行いました(その目的は各藩に政府の費用を分担させるための基準とすることであった)。

 

この新たな藩制は明治4年(1871年)の廃藩置県により失効するのですが、明治17年(1884年)華族令により公・侯・伯・子・男の5段階の爵位制度が設けられた際に叙爵の基準としてその格付けが採用されました。すなわち、その基準を定めた叙爵内規により、旧大藩知事は侯爵、旧中藩知事は伯爵、旧小藩知事は子爵とされたのです。この基準は厳格に適用され、例外は叙爵内規に明記された徳川宗家(公爵)、徳川御三家(侯爵)及び徳川御三卿(伯爵)と、内規の「国家に偉勲ある者」を公爵とする旨の規定に該当するとされた毛利本家及び島津本家のみでした。このうち、徳川宗家は、江戸城を明け渡した後静岡藩に封じられたのですが、前記明治3年の藩制により大藩に分類されたので侯爵が相当なところワンランク上の公爵となりました。次に、徳川御三家のうち尾張家と紀伊家は大藩に分類されたのでいずれにしても侯爵ですが、水戸家は中藩に分類されたので伯爵が相当であるところワンランク上の侯爵に叙せられました(さらにその後『大日本史』編纂の功により公爵に陞爵して宗家と肩を並べた)。そして、毛利・島津両家は大藩に分類されたので侯爵が相当なところ公爵に叙せられていますが、これは、明治新政府イコール薩長政府なのですから、お手盛り以外のなにものでもありません(その分徳川家を優遇してバランスを取った?)。

 

ところで、この叙爵内規は公表されず、どのような基準で爵位が決められたのかは当事者にすら知らされませんでした。そして明治3年の藩制による3区分は藩の消滅により僅か1年足らずで失効したこともあってほとんど周知される間もなく忘れられてしまったようで、結局は江戸時代の表高がその基準となったという誤解が生ずることとなりました(もっとも、実際には爵位のランクと表高が対応しているケースが大部分であったし、そもそもほかに考えられる基準はなかったので、そうした誤解が生ずるのもやむを得ないことではあるが)。

 

ところが前述のように表高はそもそも実態を表すものではなくなっていたこと、表高は穀物の生産量であったのに対し現高は租税収入であって穀物以外から得られるものも含まれていたこと等から、表高の数字と現高の数字は比例関係になく、表高が少ない藩の方が現高が多いというケースも少なからず存在し、その結果表高の小さい藩の方が大きい藩よりも上の爵位をもらうという「逆転現象」が生じました。これを説明するための理由としてよく持ち出されるのが維新における勲功が爵位の高低に反映されたのだというものですが、事実ではありません。例えば、津藩の藤堂家(表高約32万石・現高約12万石)と秋田藩の佐竹家(表高約20万石・現高約18万石)を比べると、前者の伯爵に対し後者は侯爵に叙せられていますが、周知のとおり、藤堂家は鳥羽伏見の戦いにおいて官軍側に寝返ってその勝利に大きく貢献したのに対し、佐竹家は奥羽越列藩同盟から離脱して新政府軍に加わり列藩同盟軍と戦った程度で藤堂家ほどの貢献をしたとは到底いえません。それにもかかわらず佐竹家の方が藤堂家よりも高い爵位をもらっているのであり、このことからも「維新における勲功」は全く考慮されず(ただし毛利・島津両家は別)、あくまで現高の基準が機械的に適用されたことは明らかです(ちなみに秋田藩の現高が表高の割に大きかったのは表高に含まれない木材の生産が多かったからだということ)。もっとも、戊辰戦争において「賊軍」となったことで減封処分となった場合、減封後の現高に基づいて叙爵されたため、減封されていなかったらもらえたであろう爵位よりも低いものとなったケースはあります(例えば仙台藩の伊達家は伯爵に叙せられたが、減封されていなかったら侯爵になっていたであろう)。

 

ただ、前述のとおり「維新における勲功」は、華族令制定時の叙爵の際には毛利・島津両家を除いて考慮されることはなかったのですが、その後、これを理由として陞爵したケースに、福井藩松平家(伯爵→侯爵)、宇和島藩伊達家(伯爵→侯爵)、松代藩真田家(子爵→伯爵)、大村藩大村家(子爵→伯爵)、佐土原藩島津家(子爵→伯爵)などがあります。「勲功」によってより高い爵位を与えてしまった例(毛利家・島津家)がある以上、後で辻褄合わせをする必要が出てくることが避けられないのは蓋し当然でしょう。そして、こうしたケースがあったので、「維新における勲功」が爵位の高低に影響したとの誤解が生じるのも故なしとはしないというところではあります。

 

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