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由義寺は実在した? 八尾・東弓削遺跡から古代瓦出土

 

あれ、由義寺って実在性が疑われていたの? というのが正直なところですが、ともかく今後の調査により謎が解明されることを期待したいと思います。

 

由義寺といえば道鏡ですが、彼は称徳天皇を誑かしてその寵愛を恣にし、遂には皇位を狙うに至った大悪人で、ロシアのラスプーチンに比肩される怪僧・妖僧というのが一般的なイメージでしょう。

 

道鏡が称徳天皇と男女の関係にあったかについては、同時代の史料からは確認できないようですが、道鏡の死から半世紀ほど後に成立したと考えられる説話集『日本霊異記』は、「弓削氏の僧道鏡法師、皇后と枕を同じくして交通(まじわ)り、天下の政を相摂りて、天の下を治む」として両者の関係に言及し、これが鎌倉時代に成立した『古事談』や『水鏡』ではさらに淫猥な話にエスカレートします(上記引用箇所で称徳天皇を「皇后」と記しているのは、称徳天皇と道鏡の関係を、秦の始皇帝の母后とその愛人ロウアイ(史記によると「大陰の人」。ここから道鏡=巨根説が生まれたものと思われる)の関係と混同したためと考えられます)。

 

江戸時代になると、両者が男女の関係にあったことはもはや常識といっても過言でなかったようで、次のような川柳が残されているほどです。

 

 道鏡に根まで入れろと詔(みことのり)

 道鏡に崩御崩御と称徳言い

 

失礼、笑ってしまいました。意味は・・・言わずもがなですね。当時、「不敬罪」の対象はあくまで徳川将軍家で、天皇家についてはほとんどお咎めなしだったので、「表現の自由」が保障されていたわけです(奈良時代の人なので名誉毀損にも当たらない)。

 

このように、道鏡と称徳天皇が男女の関係にあったという見方は日本人の間に広く刷り込まれていると思われますが、私は予てよりこのような見方には疑問を感じていました。その理由としては、まず、称徳天皇という人はかなりの潔癖症であったと思われることが挙げられます。次に、両者が出会ったときの年齢を見ると、称徳天皇は45歳、道鏡は50代後半と推定されますが、当時の平均寿命を考えると、称徳天皇は高齢者、道鏡は後期高齢者、あるいはそれ以上に達していたと見ることができ、そんな年齢で男女の関係になるとは考えにくいということがあります。

 

これらはいずれも何の根拠もない単なる主観的な印象にすぎませんが、そのような関係があり得なかったことは第82世唐招提寺長老の遠藤證圓師の次の指摘から明らかでしょう。

 

「道鏡が僧綱についたのは天平宝字七年(七六三)九月のこと、その五月六日鑑真和上が示寂された、まさに直後のことである。わが国に最初の正式授戒が行われてから十年、ようやく授戒の制も定着して、戒律への関心・理解も深まっていたときである。

 そうした時期に、教団追放をされる重罪の第一にあげられる触女人戒(女性にふれる戒)を犯したとなれば、それがたとえ位人臣を極めた者であっても、すぐさま批難されることはまぬがれ得ない。かりに道鏡がいかに厚顔であったとしても、平然とはしておれなかったはずである。

 ましてや僧綱の筆頭には師の良弁大僧都がおり、その下には鑑真和上に随従して来朝し、戒壇院戒和上となっている法進がいたのである。法進がこれを黙視したとするならば、苦難をのり越えてまで他国に来た自らの任を放棄したことになる。このあたりのことが、いまだ歴史学者にも小説家にもほとんど指摘されていないのは不思議である。」(遠藤證圓『鑑真和上私の如是我聞』(文芸社))

 

日本人がいかに宗教音痴かがよくわかる文章です。僧侶が妻帯しても誰も変に思わない日本の現状を見たら、鑑真はどのように思うでしょうか。まあ、今の日本仏教は本来の仏教とは全然別物なのだと言ってしまえばそれまでですが。

 

なお、称徳天皇の崩御後、道鏡は造下野薬師寺別当に左遷され同地に配流されます。下野薬師寺は戒律を授ける戒壇が設けられた(「本朝三戒壇」の一つとして「東戒壇」と称された)寺院なので、その寺の「住職」に補せられたのであれば、道鏡が女犯戒を破った破戒僧ではないことの一つの根拠となるところですが、「造寺別当」というのは寺の造営の責任者なので、残念ながら根拠とはなりそうにありません。

 

ところで、「傾城」あるいは「傾国」の美女という言葉があるように、古来君主が女に現を抜かすことは亡国の因であると考えられていました。称徳天皇が崩御して光仁天皇が皇位に就いたことにより、皇統が天武系から天智系に移ったわけですが、天智系としては、この疑似「王朝交代」を正当化する必要があり、そのための一般的な手段が称徳天皇を dis ることでした。その際、道鏡はこの「傾城の美女」ならぬ「傾城の美男」(?)にうってつけの存在であったのです。つまり、称徳天皇という男狂いの天皇が出たために天武系は皇統から排除されて事実上滅んだ(傾城)というストーリーが作られたのです。しかし、天智と天武は兄弟であり、「王朝交代」といってもそこにはかなり濃厚な血縁関係が存在するため、あからさまに正史に記録するわけにはいきません。そこで、当初は口伝の形で流布されていたものが、ある程度時間が経過した時点で「説話集」という形で記録されるに至ったのではないでしょうか。

 

この手の話はどうしても尾鰭がついて面白おかしく脚色されてしまうことを免れないようです。それは人の性としてやむを得ないのかも知れませんが、称徳天皇と道鏡にはお気の毒というほかありません。

 

参考文献:井沢元彦『逆説の日本史③古代言霊編-平安建都と万葉集の謎』(小学館)