従来、良房と良相の関係について、兄弟ではあるが、ライヴァルでもあったという見方が一般的でした。つまり、良相は非常に有能であったため兄良房から常に警戒心を抱かれていたのであり、応天門の変とは善男の排除であると共に良相潰しでもあったというのです。

 

これに対し、良房はそもそも養子の基経ではなく弟の良相を後継者と考えていたのだが、良相が応天門事件への対処を誤ったことから良相を見限り基経に乗り換えたのだという説があります(瀧浪貞子「陽成天皇廃位の真相」)。その根拠としては、良相の娘多美子の方が基経の妹高子よりも先に清和天皇に入内したこと、良相の嫡男常行の方が基経よりも官位の昇進が早かったこと等が挙げられています。同い年の従兄弟同士である常行と基経は競うように官位の昇進を重ねていますが、概ね常行が一歩先を行き、貞観6年(864年)に揃って参議に就任した時も常行の方が序列は上(位階は共に従四位下)でした。つまり、基経は良房の養子とはいえ、藤原北家の嫡子とは位置付けられていたわけではなかったのです。

 

政治的手腕に優れていた良相は良房と二人三脚で政権を運営していて、良房も良相に大いに期待していたのであるが、それはそれとして、次の世代については、常行と基経を競わせていて、基経の将来は必ずしも約束されていたのではなかったということになりそうです。

 

ところが、良相は次第に良房を蔑ろにするような行動を取り始め、応天門の炎上という重大事件で善男の誣告を軽率に信じて良房に相談せずに独断で信の捕縛を命ずるという失態を犯したために遂に良房の怒りを買って事実上失脚したというのです。そして、事件の一連の事後処理が終わった段階で、基経が7人抜きで一躍中納言に抜擢され(事件に適切に対応した功績を理由とする)、常行に大きく水をあけることとなります。さらに翌貞観9年(867年)には良相が死去したため、良房の後継者たる地位は確実なものとなりました。

 

このように見てくると、応天門の変により最大の利益を得たのは良房というよりも基経であったといえるように思われます。基経は、良相が健在である限り常行の後塵を拝し続けることは避けられそうもないと考え、乾坤一擲の大勝負に出て、見事に勝ちを収めたのではないでしょうか。このように考えると、良房が半分引退した状態にありながら敢えて政界に復帰したのも、基経によってうまく担ぎ出されたのだと説明できそうです。そうすると、全ての筋書きは基経によるものであり、応天門の変の黒幕は良房ではなく基経であったと考えたくなります。もっとも、前記瀧浪説もそこまでは言っておらず、他に基経黒幕説があるか否かは寡聞にして存じませんので、可能性を指摘するに留めておきます。

 

なお、応天門の炎上は放火によるのかそれとも失火によるのか、放火の場合犯人は誰かということも謎ではありますが、それについてはあまり関心がありません。その真相がどうであれ、良房あるいは基経によって都合よく利用されたということでしょう。

 

未だ考察が十分でないまま書き進めたため、論旨に整合性がとれておらず、最初の意気込みとは裏腹にまとまりのない雑感めいたものになってしまいました(お粗末!)。

 

(了)