出光美術館で伴大納言絵巻の上巻に引き続いて中巻を見ました。中巻は源信の赦免と、伴善男の「悪事」が露見する発端となった子供の喧嘩とをモチーフとした内容となっています。特に、子供の喧嘩のシーンは、子供同士が喧嘩をしているところに一方の親が駆けつけて相手の子供を蹴りつけるまでの一連の流れの描写がまるで四コマ漫画を見るようで、当時既にその技法が確立されていたことに驚きます。

 

 

 

ところで、「応天門の変」として知られるこの事件は、藤原氏による他氏排斥の一環というのが一般的な理解ですが、なぜ源信ではなく、伴善男が排除されなければならなかったのかということを以前から疑問に思っていました。なぜなら、善男は藤原氏に取り入ることで出世を遂げており、その政治的立場は信よりも藤原氏に近かったからです。これに対し、信は嵯峨源氏の総帥であり、藤原氏にとっては伴氏よりもそちらの方が脅威であったのではないかと思われるのです。もっとも、一時は政界に一大勢力を築いた嵯峨源氏も、この事件が起こるまでに常(左大臣)・定(大納言)・弘(大納言)といった有力者を相次いで亡くしており、その勢力にも陰りが生じていました。しかし、そうであればなおさら、信を排除すれば嵯峨源氏にとって一層の打撃となりその力を大きく削がれることとなるので、藤原氏にとってはベターだったのではないでしょうか。

 

それにもかかわらず善男が排除されたのは、藤原氏(特に良房)にとってその存在が危険になったからだというのが一般的な理解でしょう。善男は目的のためには手段を択ばず、非常に汚いやり方でライヴァルを陥れてのし上がった悪辣な人物として知られています。それゆえ、良房としても、これ以上善男が力をつければいつ寝首をかかれるかも知れないので、そうなる前に先手を打ったというわけです。

 

さらに、良房が善男の誣告に対して信を守ったのは次のような事情があったからだともいわれています。すなわち、文徳天皇は病が重くなって譲位を考えたが、良房の外孫である皇太子惟仁親王(後の清和天皇)は未だ幼少であったため、最愛の息子である惟喬親王を惟仁が成人するまでの中継ぎとすることを信に相談したところ、信がこれに反対したため断念した、そして良房はこれに対して非常に恩義を感じていたというのです。しかしながら、信にとって惟仁は異母妹潔姫(良房の妻)の孫であるから惟仁にとって不利となるようなプランに反対することは別に不思議なことではありませんし、良房がそれ程ナイーヴな甘い人物であったとも思えません。そもそもこのエピソード自体事実かどうか不明です。

 

この点に関して、30年以上前の高校生のころ何かで読んだのですが、清和天皇の生母明子は信と潔姫が密通してできた子だという説があるようです(しかし出典が思い出せないため確認できない)。良房は潔姫以外の妻妾が知られていないため、予てから Elton John Freddie Mercury George Michael といった人たちと同じ性癖を持っていたのではないかと疑っているのですが、そうだとすると、良房にとって自分の権力の源泉は「娘」の明子が清和天皇の生母であるという事実にある以上、それをもたらしてくれた信に恩義を感じて彼を守ったのではないか、両者の間には何かしら黙契のようなものがあったのではないか、と想像を逞しくしたくなります。良房に潔姫以外の妻妾がいないことについては、天皇の皇女を妻としたため、他の女性に手を出せなかったのだというのが一般的な解釈だと思いますが、潔姫の父嵯峨天皇の在世中であればともかく、亡くなった後もそれに束縛されていたというのはありそうにないように思われますし、そもそも良房がそんな殊勝なタマだったとも思えません。

 

もちろん、良房は当時としては珍しい一穴主義(失礼)の愛妻家だったのかも知れませんし、ゲイであった(控えめに言って女性に興味がなかった)から自分に代わって明子を儲けてくれた信に恩義を感じていたというのは根拠のない妄想にすぎず、あくまで信と善男を天秤にかけてより危険な善男を切ったというのが妥当なところでしょうが、この際あえて奇説を披露してみました(別に問題提起をしようなどと大それたことを考えているわけではありません、念のため)。

 

もう少し続きます。