元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が笠置山で討幕の兵を挙げると(元弘の乱)、鎌倉幕府は追討の兵を差し向けるとともに、9月には後醍醐天皇を廃して皇太子量仁親王を皇位に就けます(光厳天皇)。このとき、三種の神器は後醍醐天皇によって持ち出されていたため、光厳天皇は後鳥羽天皇の先例に従い神器のないまま践祚したのですが、後醍醐天皇が幕府に捕らえられると、10月に神器の引き渡しを受け、元弘2年(1332年)3月に即位式を行って正慶と改元しました。


 

ところが、元弘3/正慶2年(1333年)5月、鎌倉幕府が滅亡し、京都に還幸した後醍醐天皇によって光厳天皇の即位と正慶改元は否定され、光厳天皇による詔書及び人事も無効とされてしまいます(そのため、光厳朝で太政大臣に任命された今出川兼季の肩書は「前右大臣」と格下げされました)。但し、光厳天皇には太上天皇の尊号が贈られました。


 

建武2年(1335年)11月、中先代の乱鎮圧後も鎌倉に留まって自立の動きを強めていた足利尊氏は、後醍醐天皇に叛旗を翻し、翌建武3年(1336年)1月には京都に進軍しますが、この間、自己の行動の正当化を図って光厳上皇と連絡を取っています。尊氏は同年2月の新田義貞・北畠顕家軍との戦いに敗れて一旦は九州に落ち延びますが、光厳上皇の院宣を得て東上すると、湊川の戦いに勝利して同年6月に入京を果たしたため、後醍醐天皇は神器を持って比叡山に逃れます。同年8月、光厳上皇の院宣により上皇の弟豊仁親王が神器のないまま皇位に就き(光明天皇)、上皇は治天の君として院政を開始しました。


 

その後、後醍醐天皇は、尊氏からの和議の申し入れに応じて京都に還幸し、同年11月に神器を光明天皇に引き渡して太上天皇の尊号を贈られます(同時に後醍醐天皇の皇子成良親王が皇太子に立てられた)。ところが、同年12月、後醍醐天皇は吉野に脱出し、光明天皇に引き渡した神器は偽物であり、自らが正統な天皇であると主張して南朝を建てました。これをもって南北朝時代の開始ということになります。


 

光厳天皇は歴代天皇のうちには数えられておらず、北朝初代天皇とされていますが、上記のように彼の在位は南北朝時代の開始前であり、「北朝初代」というのは正しくありません。また、南朝が北朝の天皇の地位の正統性を否定する論拠は、真正の三種の神器を保有していないということに尽きますが、光厳天皇は後醍醐天皇から真正の神器を譲り受けているので、その地位の正統性には疑義を差し挟む余地はありません。彼が歴代天皇として認められず、「北朝初代」という奇妙な位置付けに甘んじているのはひとえに後醍醐天皇という我欲の塊のような人物の一存によるもので、全くお気の毒というほかありません。


 

ついでにいうと、後醍醐天皇は、比叡山に逃れた後、尊氏との和議に応じる前に、皇太子恒良親王に神器を渡して譲位し、新田義貞に供奉させて北陸に下向させたとされており、一体いくつ神器があったんだよ(というより、どれが本物か果たして確証があったのかよ)と、ツッコミを入れたくなります。とにかくこの天皇のおかげで世の中は乱れに乱れたわけで、まったくもって迷惑な御仁であったと評せざるを得ません。