叔父の九条兼実に後白河法皇との君臣合体をすっぱ抜かれた近衛基通は摂関家の嫡流である近衛基実の嫡子として生を受けたのですが、7歳のときに父基実を亡くし、基実の正室・平盛子が彼の養母となります。しかし、盛子はわずか11歳であったので、盛子の父平清盛が事実上基通の後見人となりました。その後清盛の娘完子(寛子ともいう)と結婚し、平氏との結びつきを深めます。

 

治承3年(1179年)11月、清盛がクーデタを起こして関白松殿基房を解任すると(治承三年の政変)、基通は従二位右中将から参議・中納言・大納言を経ずに一躍関白内大臣に任命され、翌年2月、安徳天皇が即位すると摂政に転じます。摂関家の子弟は通常参議を飛ばしていきなり中納言となり、大納言を経て大臣に昇り、その後に摂政・関白となるのですが、大臣はおろか中納言も大納言も経ずに関白となったのは基通くらいです。

 

平氏のバックアップを得て摂政関白となった基通ですが、寿永2年(1183年)に平氏が源義仲に追われて都落ちした際には同行を拒否し、後白河法皇に接近してその側近に収まります(『玉葉』寿永2年8月18日の条は、基通と後白河法皇がデキた経緯について記載したもの)。

 

基通は、寿永2年11月の義仲のクーデタにより摂政を解任されますが、翌年1月、義仲が討たれると摂政に復帰します。しかし、文治2年(1186年)3月、源義経が兄頼朝追討の院宣を後白河法皇に出させた際にその仲介をした責任を追及されて再び摂政を罷免され、閉居します。

 

ところが、建久7年(1196年)11月に関白九条兼実が失脚すると(建久七年の政変)、その後任として政界に返り咲きを果たします。この時点で基通の嫡子家実はまだ正三位右中将であり、基通の他に兼実に代わって関白となりうる人物はいなかったのですが、この政変を主導して実権を握った源(土御門)通親は名うての色好みとして知られた人物なので、またしても?と勘繰りたくなるところではあります。

 

基通は、参議・納言を経験せずに関白となったこと、また、父基実が早逝したため有職故実の伝授を受けられなかったこともあって失態を重ね、叔父の慈円からは「無能」の烙印を押されるなど、政治家としては芳しくなかったようですが、平清盛、後白河法皇、源通親と、時の権力者に巧みに身を寄せてその地位を保つなど、政界遊泳術には長けており、近衛家を守り通したといえるでしょう。彼の子孫は五摂家筆頭として堂上公卿のトップにあり続け、昭和に入って首相近衛文麿を輩出しています(もっともこの御仁も政治家としては全くいただけませんが)。

 

[追記]

後白河法皇に「鍾愛」されたという近衛基通ですが、どうも『鎌倉殿の13人』には登場しそうにないので、その簡単な経歴を紹介する記事も再掲しました。なお、彼は、前記のとおり、建久七年の政変で土御門通親に担ぎ出されて政界に復帰したのですが、通親が彼を担ぎ出した理由は、他に人がいなかったというだけではなく、彼が「無能」だったということも大きかったと思われます(小沢一郎ではないが、「神輿は軽くてパーがいい」ということ)。ただ、藤原定家の『明月記』によると、政界復帰後の基通は、人を寄せ付けなくなっていて、人とすれ違う際に目が合うと相手に暴言を吐くなど、すっかり荒んだ性格になっていたということで、自分より格下である通親ごときに膝を屈しなければならなくなったことで鬱屈した感情を抱くようになっていたのかもしれません。