征夷大将軍を巡る「伝説」の一つに、源頼朝は征夷大将軍任官を望んだが、後白河法皇がこれを許さなかったため、法皇の死後ようやく就任できたというものがあります。

 

ところが、15年ほど前に、中山忠親の日記『山槐記』に次のような記事があることが発見されました。すなわち、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、これを受けて朝廷が、それに見合う官職として「征夷大将軍」を選択したというものです。頼朝の要望を受けた朝廷は、「惣管」、「征東大将軍」、「征夷大将軍」、「上将軍」という4つの候補を検討しました。そして、「惣管」は平宗盛が、「征東大将軍」は源義仲が、それぞれ就任したという先例があるがゆえに不適切であるとして却下。また「上将軍」は先例がないとしてこれまた却下。結局、残った「征夷大将軍」が、坂上田村麻呂という先例もあって適切だと判断したということです。つまり、頼朝としては、武士の棟梁に相応しい適当な肩書が欲しかっただけで、別に征夷大将軍にこだわっていたのではないということになります(現に頼朝は、将軍就任の2年後の建久5年(1194年)に辞意を表明しており、実際に辞任したことを示唆する史料も存在する)。

 

また、寿永3年(1184年)3月に、源義仲追討の褒賞として頼朝が正四位下に叙位された際、後白河法皇は頼朝を「征夷将軍」に任じようとしたが、頼朝がこれを辞退して叙位のみ受けたということも、『吾妻鏡』及び『玉葉』の新解釈から明らかとなったそうです。「征夷将軍」と「征夷大将軍」は同じものであり、そうすると、後白河法皇も、別段頼朝の征夷大将軍就任に反対していたわけではないというのが真相のようです。冒頭で述べたエピソードはどうやら後世の潤色ということになりそうです。

 

ところで、源頼朝は建久3年(1192年)に征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いた(いいくにつくろう)というのが従来の通説ですが、現在では、鎌倉幕府創設の年については、この説のほか、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)とする説、朝廷から東国支配権を事実上承認された寿永2年(1183年)とする説、公文所・問注所を開設した元暦元年(1184年)とする説、朝廷から守護・地頭の設置を認められた文治元年(1185年)とする説、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)とする説等区々に分かれており、「いいくにつくろう」説はもはや通説の地位を失っています。従来の通説は、征夷大将軍を首長とする幕府という統治機構が確立した後に、これを始祖である頼朝に遡及させるという過誤を犯すものと断ぜざるを得ないようです。

 

鎌倉幕府は、頼朝が実質的な東国支配権を手中にした治承4年(1180年)以降、朝廷からその支配権の追認を獲得することにより徐々に実体を備えていったもので、偶々そのトップとして征夷大将軍という官職が選択されたわけです。つまり、征夷大将軍が幕府の首長となったことには何らの必然性もなかったということです。

 

[追記]

昨夜(6月5日)放映された『鎌倉殿の13人』では、頼朝の征夷大将軍就任の経緯が概ね前記の説に従って描写されました。冒頭に記載した、後白河法皇が頼朝の征夷大将軍就任を許さなかったという説はもはや過去のものとなったといえるでしょう。そもそも、征夷大将軍は、平安時代初期に「蝦夷征討」の長官としてアドホックに任命された令外官であり、それゆえ、律令にはその職務の権限や責任は規定されていません。また、征夷大将軍の任命は、弘仁4年(813年)の文室綿麻呂の任命を最後に、「蝦夷征討」の終了をもって途絶し、それから頼朝の任命までに約380年もの年月が経過しています。こうしたことに鑑みると、「征夷大将軍」という役職が当時どの程度認知されていたのかという疑問を抱かざるを得ません(それが武士の棟梁たる地位に相当するものと認識されていたとは到底思えない)。冒頭に記載した「伝説」は、出典が『吾妻鏡』であることもあって、長らく史実と考えられていたのですが、『吾妻鏡』が成立したのは13世紀末から14世紀初頭であり、そのころには幕府という統治機構が確固たるものとなっていたので、そのトップである征夷大将軍の「有難み」を際立たせるために創作されたものなのかもしれません。なお、頼朝が「大将軍」を望んだことについては、当時の東国の有力武士は、そのほとんどが「鎮守府将軍」の子孫である(すなわち、千葉・上総・河越・畠山・三浦・土肥・梶原等の祖平良文、北条・熊谷等の祖平貞盛、大友・山内首藤・武藤・小山・波多野・比企等の祖藤原秀郷、平賀・大内・足利・新田・武田・安田・佐竹等の祖源頼義(頼朝自身の祖でもある)はいずれも鎮守府将軍を務めた)ことをアイデンティティとしていたことから、それを凌駕する称号を必要としたのだとの説があります。