源氏でなければ征夷大将軍になれないという命題が成り立たないことは、鎌倉幕府における摂家将軍・宮将軍の存在からして明らかですが、さらに以下の点を指摘しておきます。

 

まず、織田信長を巡るいわゆる三職推任問題です。これは、信長を太政大臣、関白又は征夷大将軍のいずれかに任じることに関して、朝廷と信長の間でやりとりがなされていたというもので、周知のとおり、この件を持ち出したのは朝廷側か、信長側かということが争われています。私見では朝廷側が持ち出したと考えますが、いずれであっても、平氏を自称していた信長を征夷大将軍に任命することが検討されていたことになるので、源氏であることが征夷大将軍の資格要件ではなかったことは明らかです。

 

また、『多聞院日記』によると、明智光秀を討った後、信長の後継者としての地位を固めつつあった羽柴秀吉に対し、朝廷が征夷大将軍への任官を打診したところ、秀吉はこれを辞退したそうです。秀吉は当時、信長に倣って平氏を自称していたので、このことからも「源氏であること」と征夷大将軍の地位とは無関係であることが分かります。というより、氏素性などそもそも問題とされていなかったというべきでしょう。

 

なお、秀吉といえば、征夷大将軍になろうとして、足利義昭に対し養子にしてくれと申し入れたが、断られたので、将軍は諦めて関白に方針変更したのだという話が巷間に流布していますが、これは江戸時代になって林羅山が広めた俗説にすぎません。上記のとおり、平氏のままで朝廷から将軍任官を打診されていたわけですから、義昭の養子となって源氏にならなければならない理由など全く見当たりません。

 

これに対し、徳川家康は、征夷大将軍となるために源氏に改姓しています(近衛前久の言による)が、この改姓に至るまでには次のような経緯があります。家康はそもそも清和源氏新田流を自称していたのですが、三河守任官に際し、新田流の源氏には先例がないとして一旦朝廷から拒絶されたため、藤原氏に改姓します。ところが、小田原征伐後に関東に移封となったことを契機に再び新田流源氏を名乗ります。これは、鎌倉幕府北条氏を滅ぼしたのが新田義貞であるという故事に因んで、後北条氏に代わって関東に入った家康がその支配をうまく行うための象徴として行ったものだとする見解があります。その後豊臣政権下で豊臣姓を与えられて(押し付けられて)これを名乗らざるを得なかったものの、関ケ原の勝利後に再度源姓に戻したということです。

 

これは豊臣との決別を示すものであることはいうまでもありませんが、同時に源氏でなければ征夷大将軍になれないという命題を措定することで、信長・秀吉は源氏でなかったので将軍になれなかったことを印象付けて、自己が武家の棟梁として源頼朝の正統なる後継者であるという権威づけを図ったものと考えられます。秀吉が義昭から養子入りを断られたという前記エピソードもその一環として創作されたのでしょう。

 

要するに、源氏でなければ征夷大将軍になれないという命題は、いわば「徳川史観」の産物にすぎないと考えます。

 

[追記]

「源氏でなければ征夷大将軍になれない」という言説は、不文律であれそのような要件は存在せず、単なる俗説にすぎないことは上述のとおりですが、これに対して、「征夷大将軍は源氏であるべきだ」という理想論は存在しました。鎌倉幕府第三代将軍の源実朝が暗殺された後にその後継に迎えられた藤原頼経が将軍に就任するにあたり、幕府内で頼経の源氏への改姓が議論され、幕府が藤原氏の氏神である春日大社にお伺いを立てたところ、お許しが得られず沙汰止みとなった(その背後には、源氏改姓により頼経の権威が高まることを北条氏が嫌ったことがあるとの説がある)ということです。この史実は、当時の御家人の間に、征夷大将軍には源氏がふさわしいとの考え方が根強く存在したことを示しています。また、鎌倉幕府第七代将軍の惟康親王は、「惟康王」として将軍に就任した後、源姓を与えられて臣籍に降下し、「源惟康」となりました(後に親王宣下を受けて「惟康親王」となった)。これについては、当時は、蒙古襲来の危機が切迫しており、そうした国難に幕府一丸となって対処するために、執権北条時宗が、惟康を幕府の開祖である源頼朝に擬する(自らは高祖父北条義時に擬する)ことによりその象徴とすることを狙ったのだとの説があります。この見解が正鵠を射ているとすると、これまた征夷大将軍は源氏であるべき(ふさわしい)との理想論のひとつの顕現であるといえるかもしれません。

 

さらに、豊臣秀吉が、征夷大将軍になろうとして足利義昭に養子にするよう申し入れたが断られたという上述の有名なエピについても一言。いうまでもなく、室町幕府では足利家が将軍職を世襲してきたのですが、それにより、当時の人々の間に将軍職は足利家の家職である(つまり、足利家の人間でなければ将軍になれない)との共通認識(というか、固定観念?)が形成されていました。それゆえ、秀吉が義昭の養子なろうとしたというのは、征夷大将軍になるためには、源氏でなければならないからだというよりは、足利家の一員でなければならないからだという発想によるものと考えるのが正確であるように思われます(秀吉は、摂関家(藤原氏)の家職となっていた関白に就任するため、五摂家筆頭である近衛前久の猶子になっている。これは、摂関家の人間であることが摂政・関白の資格要件だと考えられていたからである)。

 

なお、源氏でなければ征夷大将軍になれないとの俗説が生まれた由来については、上述の私見は単なる思いつきにすぎず、時間の経過によって次第に形成されたというのが実際のところであることはいうまでもないでしょう。

 

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