足利尊氏の初名は「高氏」ですが、これは得宗北条高時から偏諱を受けたものです。鎌倉幕府滅亡後、討幕の第一の功労者として、後醍醐天皇からその諱「尊治」の1字を賜り、「尊氏」と改名したというのが一般的な理解でしょう。

 

しかし、天皇から偏諱を授与されるというのは極めて異例であるため、既に明治時代から疑問が呈されていました。すなわち、1895年に『史学雑誌』という雑誌の質問コーナーにおいて、①尊氏が後醍醐天皇から偏諱を賜ったのはなぜか、②尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻して官位を剥奪されたのに「尊」という字を剥奪されなかったのはなぜか、という山口県在住の読者からの質問に対し、星野恒帝国大学教授が大要次のように答えているそうです(水野智之『名前と権力の中世史』(吉川弘文館))。

 

1.公卿補任等によると、尊氏を従三位に叙した際の記事には「以高字為尊」とあって「賜尊字」とか「賜御名」等とはされていない。これは、従三位叙位の位記に「尊氏」と書いて下賜したことを表すもので、尊氏側からの申請に基づいて「高氏」を「尊氏」に改めることを認めたものと考えられる。すなわち、「高氏」は賊将北条高時の偏諱を受けたものであるから、これを嫌って、たまたま後醍醐天皇の諱「尊治」と音が同じであることから、「尊氏」とすることを願い出たところ、天皇としても、尊氏の功績及び勢力に鑑みるとその願いを無下に拒絶することもできず、位記にしれっと「尊氏」と書くことにより、それを認めたのであろう。

 

2.このような次第であるから、後に尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した際にも、「尊」という字を剥奪しなかったと考えられる。なぜなら、天皇の偏諱を授与したものではないため、剥奪する理由がないからである。

 

確かに、「尊氏」が後醍醐天皇から偏諱を受けたものであれば、天皇に背いた時点で官位と共に剥奪されるべきと考えられます。この点、幕末の長州藩主毛利敬親は、初め将軍徳川家慶から偏諱を授与されて「慶親」と名乗りましたが、禁門の変で朝敵となったことによりこれを剥奪されたため「敬親」と改名しています(上記質問者は山口県在住ということで、この事例が念頭にあってその質問をしたのでしょう)。

 

ところが、尊氏は朝敵となった後もその名を使い続けており、このことは彼が偏諱を受けたのではないことを示すものだというのは説得力があります。そうだとすると、足利尊氏は後醍醐天皇から偏諱を賜ったという通説は問題があるといわなければなりませんが、星野恒の上記見解はなぜか無視されています。

 

ところで、天皇から偏諱を賜った人物は存在しないのかというと、筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(講談社)には、伏見天皇が、鎌倉幕府第12代執権北条熙時に諱「熙仁」の1字を与えた旨の記載があります。この記載には何の典拠も示されていないため、俄かに信じがたいのですが、北条熙時は初め得宗北条貞時から偏諱を授与されて「貞泰」と名乗り、貞時の娘を正室に迎える等、得宗家とは昵懇の間柄であったことを考慮すると、それにもかかわらずその名前を変えるということはよほどの理由がなければ考えられないところ、天皇から偏諱を賜ったということはその理由として十分なものといえそうです。但し、この点は、確かな史料に基づいて確認するまで保留としておきます。