諡号に「徳」という字を含む天皇は、4代懿徳天皇、16代仁徳天皇、36代孝徳天皇、48代称徳天皇、55代文徳天皇、75代崇徳天皇、81代安徳天皇、84代順徳天皇の8人を数えます。


 

このうち、古代の懿徳、仁徳の両天皇を除く6人は、いずれも無念の死を遂げています。


 

孝徳天皇は、蘇我氏を滅ぼした後に天皇となり、いわゆる「大化の改新」を行った人物ですが、皇太子である中大兄皇子(後の天智天皇)と対立し、中大兄が前天皇の皇極(中大兄の母・孝徳の姉)、孝徳の皇后である間人皇女(中大兄の妹)らを引き連れて飛鳥に去ってしまい、難波宮に置き去りにされて失意のうちに亡くなりました。


 

称徳天皇は、道鏡に皇位を継がせたいと願っていましたが、それを果たせず亡くなりました。


 

文徳天皇は、長男の惟喬親王を皇太子にしたかったのですが、藤原良房の圧力により、良房の娘明子との間に儲けた惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子として、失意のうちに早世しました(良房による暗殺説もある)。


 

崇徳天皇は、保元の乱に敗れて讃岐に配流され、その地で憤死しました。


 

安徳天皇は、壇ノ浦で平家と運命を共にしました。


 

順徳天皇は、承久の乱に敗れて佐渡に配流され、その地で憤死しました。


 

こうして列挙すると、確かに、皆さん、心残りであったことと思われ、そうした無念の死を遂げた天皇を鎮魂するために「徳」という字が諡号に使用されたものと考えられます。


 

ところで、もう一人、「徳」という字を含む諡号を贈られた天皇がいます。それは、承久の乱に敗れて隠岐に配流され、その地で憤死した後鳥羽天皇です。この天皇には、最初「顕徳」という諡号が贈られたのですが、後にその祟りが恐れられたため、3年後に「後鳥羽」と改められたということです。


 

なぜ、このような変更が行われたかというと、「徳」という縁起でもない字を含む諡号をつけられたことを怒って祟りをなしたと当時の人が考えたからだという説(井沢元彦氏)と、当時、「徳」には、「元に戻す」という意味が内包されており、貴族たちは、無念の死を遂げた天皇に対し、魂だけでも都にお帰り下さいという意味を込めて「徳」の字を含む諡号を贈ったのであるが、討幕を志した「顕徳」天皇の魂に京都に帰って来られることを幕府が忌避したからだという説(本郷和人氏)があります。


 

後説は、幕府が一旦は「顕徳」という諡号を認めた理由が説明できない(最初から認めなければよい)こと、鶴岡八幡宮の一隅に新宮を建立し、後鳥羽天皇の霊を勧請して鎮魂したことと整合しないきらいがあること、さらに順徳はなぜOKなのかが説明できないことから賛成できません。


 

いずれにしても、その後、「徳」という字を含む諡号は使用されなくなりました(もっとも、後醍醐天皇が亡くなった際、北朝は「元徳」という諡号を贈ることを検討したそうですが)。