源実朝暗殺の実行犯は彼の甥の公暁とされていますが、それは公暁の単独犯行であったのか、それとも公暁を使嗾した黒幕がいたのかという二説が対立しており、さらに後者の説を採る場合、北条義時を黒幕とする説と三浦義村を黒幕とする説が対立していることは周知のとおりです。


 

 

公暁単独犯行説はひとまず措き、黒幕肯定説としては、まず、「犯行により最大の利益を得た者」を疑えという犯罪捜査の鉄則に漠然と従って、実朝の死による最大の受益者である北条義時を黒幕と見る説が有力となりました。しかしながら、この説は、ほとんど論拠らしい論拠も示しておらず、議論として極めて杜撰であるのみならず、次のような大きな難点があります。すなわち、実朝の右大臣拝賀の式では当初北条義時が太刀持ちを務めることになっていたところ、義時は式の直前になって俄かに体調不良を訴えて、実朝側近の源仲章とその役を交代したのですが、公暁はその仲章を義時と誤認して殺害している(客体の錯誤)からです。つまり、公暁の計画としては、実朝と義時を一挙に亡き者とすることとなっていたということになりますが、これは義時黒幕説と矛盾するというほかありません。


 

 

北条義時黒幕説に対して異を唱え、三浦義村黒幕説を提唱したのは作家の永井路子氏です。永井氏は、三浦義村の妻が公暁の乳母(めのと)であったことに着目します。当時の社会において、乳母と乳母子は強い絆で結ばれていました。三浦氏にとって公暁は掌中の珠だったのです。そこで、義村は、実朝と義時を排除して、公暁を将軍に擁立するとともに、自らは義時に取って代わって鎌倉幕府の実権を握ろうとしたのだというのです。この計画が成就するためには、実朝のみでなく義時も殺害することが必要不可欠です。ところが、義時を殺すことができなかったため、義村はやむなく計画を断念し、保身のために公暁を討ったのだというのです。


 

 

この三浦義村黒幕説は、北条義時黒幕説に比べると説得力のあるもので、一定の学者の支持するところとなり、義時黒幕説と並ぶ有力説となりました。確かに、この説によると、義時黒幕説の前記難点は解消されます。


 

 

しかし、新たな疑問が生じます。すなわち、実朝の右大臣拝賀式における太刀持ちという重要な役を務めることは義時にとって大きな栄誉であったはずなのに、式の直前になって急病を理由にそれを他人に譲るというのはいかにも不自然であり、危機を察知したからこそそのような行動に出たと考えるのが自然です。ところで、実朝の乳母は義時の姉妹(北条政子の妹)であり、北条氏にとって実朝は掌中の珠でした。それゆえ、実朝を失うことは北条氏にとって大きな痛手となるはずです。ところが、義時は、実朝襲撃のおそれがあることを実朝に告げていないし、襲撃に備えて警備を厳重にするということもしていません。つまり、義時は実朝を見殺しにしたわけです。そうすると、義時には、公暁/義村の計画を黙認し、その犯行を可能にしたということで、少なくとも不作為による片面的従犯が成立することとなります。


 

 

さらに、義時が三浦氏を不問に付したというのも解せません。北条氏は、源頼朝の死後、様々な口実(言いがかり)を設けて、比企氏、梶原氏、畠山氏、和田氏といった有力御家人を次々に滅ぼしていますが、実朝暗殺に三浦氏が加担していたならば、それは同氏を討滅する絶好の口実となるにもかかわらず、なぜそうしなかったのでしょうか。


 

 

このように、北条義時黒幕説と三浦義村黒幕説はどちらも難点があるといわざるを得ません。そこで、第三の説として浮上するのが北条三浦(共謀)共同正犯説です。容疑者が皆犯人というのは、あの有名な推理小説(ネタバレになるのでタイトルは秘す)と同じじゃないかというツッコミが入るところですが、それに対しては、この説は両説を「アウフヘーベン」したものだと評しておきます(大袈裟ですが)。この説(正確には、実朝殺害は北条氏と三浦氏だけではなく鎌倉武士団の総意によるものだとする)は、作家の井沢元彦氏が1997年刊行の「逆説の日本史5・中世動乱編」において提唱したもので、その後、NHKが2005年に放映した「その時歴史が動いた 実朝暗殺・歌人将軍はなぜ殺されたか?」という番組も大筋でこの説に従うものでした(但し、井沢氏の名前は一切出ませんでしたが)。


 

 

井沢氏の前掲書の内容と、NHKの前掲番組の内容には若干の相違がありますが、大雑把にまとめると以下のようになります。従来、実朝は、政治には関心がなく、和歌の世界にいわば現実逃避をしていたと考えられていました。ところが、最近の研究によると、実際には、理想とする世の中を実現するために精力的に政治に取り組んでおり、単なるお飾りではなかったことが分かってきました。しかしながら、実朝が志向する政治は、後鳥羽上皇率いる朝廷との協調を重視するものであり、武士の利益を第一とするものではなく、むしろ朝廷の意を迎えるものでした。そのため、武士の間では実朝に対する不満・反感が募ることとなったのです。そもそも、武士たちが頼朝を担いだのは、朝廷による政治では自分たちの利益が蔑ろにされていたことから、自分たちの利益を代弁し、守ってくれる組織(つまり幕府)を作るためであったのに、実朝の政治路線はこれに反するものであって、到底容認できるものではありません。そこで、彼らは、ついにいわゆる「王殺し」の挙に出たのだというものです。


 

 

さらに、実朝と共に殺害された源仲章は、従来、北条義時と誤認されて殺されたと考えられてきました。しかし、鎌倉武士団総意説によると、仲章は当初から殺害のターゲットであったということです。というのも、仲章は公家出身で、京都から鎌倉に下り、実朝の家庭教師的役割を務めたことでその信任を得て側近となり、実朝と朝廷のパイプ役を務めるようになったのですが、それにとどまらず、大江広元に次ぐ政所別当の次席に抜擢されて、幕政においても大きな役割を果たしていたのです。つまり、仲章は、実朝の朝廷との協調路線を支える重要人物だったのであり、それゆえ、実朝と一緒に葬らなければならなかったということになります。


 

 

また、井沢説の優れた点は、なぜ鶴岡八幡宮が犯行現場とされたのかについて説得力のある説明がなされていることです(NHKの前掲番組ではこの点は完全にスルーされていました)。そもそも、従来、この点については問題意識が持たれることすらなかったようです(私も、井沢氏の前掲書を読むまで考えたこともありませんでした)。詳細は前掲書をお読みいただきたいのですが、井沢氏によると、鶴岡八幡宮は頼朝が幕府と朝廷の「公武融和」の象徴として建立した聖域であり、そのような場所を血で汚すということはあってはならないことである。それにもかかわらず、その聖域において、しかも右大臣拝賀式に参列していた公家衆の面前で犯行が行われたということは、実朝が推進する朝廷との協調路線を断固拒否するという鎌倉武士団の強固な意思を示すとともに、朝廷を恫喝するものであったというものです。けだし卓見というべきでしょう。


 

 

なお、北条義時黒幕説と三浦義村黒幕説が二者択一的に捉えられていたのは、北条氏と三浦氏が当時対立関係にあったという思い込みに起因するという指摘もあります。確かに、後年、三浦氏は北条氏によって滅ぼされることとなります(いわゆる宝治合戦)が、このことを遡及的に押し及ぼして、実朝暗殺の時点で両者が既に対立関係にあったと決めつけてしまったのではないかということです(実際、実朝暗殺後の両者の行動を見ると、むしろ両者は協調関係にあったと考える方が自然です)。この考え方によると、北条義時が実朝暗殺に乗じて三浦義村を討滅しなかったのは当然だということになります。


 

 

鎌倉武士団総意説には、細かい点で詰めが甘い部分があることは否めませんが、私としてはこれで決まりだと思っています。公暁単独犯行説は、公暁が鶴岡八幡宮の別当であったことに対する理解を欠くものであり、失当です。理由は、なぜ鶴岡八幡宮が犯行現場とされたのかについて述べたところから明らかでしょう。


 

 

ところで、実朝暗殺の結果、武家にとって右大臣就任は不吉な先例となったようです。現に、足利将軍で右大臣になった者は皆無です。すなわち、3代義満、6代義教、8代義政はいずれも内大臣から左大臣(義満はさらに太政大臣)へと、右大臣を飛び越して昇任しています(しかし、義教は非業の死を遂げました)。


 

 

そして、武家として実朝以来の右大臣となったのは織田信長ですが、彼もまた実朝と同様の運命をたどったことはご承知のとおりです。そのためか、豊臣秀吉は内大臣から太政大臣、豊臣秀次は内大臣から左大臣にそれぞれ昇任し、いずれも右大臣は回避しています(しかし、秀次は非業の死を遂げました)。これに対して、右大臣となった豊臣秀頼の最期はご承知のとおりです。


 

 

もっとも、徳川将軍を見ると、初代家康、2代秀忠、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、9代家重、10代家治、11代家斉、14代家茂の9名が右大臣となっています(さらに家康、秀忠、家斉は最終的に太政大臣に昇任)。徳川将軍は不吉な先例を気にしなかったようです。


 

 

実朝の墓


 

 


隣には母北条政子の墓(暗くてよくわかりませんが)

 

二人の墓がある寿福寺