先程隣室の前で喚いていた声が、上から聞こえる。

それに覆いかぶさるようにして野太い声も聞こえる。

それを遮る為にコンポの電源を入れて音楽をかけた。

カーテンの向こうには人工的な風景が広がっていて、ちょうど真向かいのマンションの部屋にはまだ明かりは、ない。

かすかに聞こえる上からの声をボリュームを上げて消し去った。

スピーカーからは無意味な言葉が流れる。

それはたいていの言葉と同じだ。

窓からバルコニーに出る。

このアパートの各部屋にはわりあいに広いバルコニーがついているのだ。

タバコに火を付けると溜息と交じらせた煙を吐く。

上がっていく煙の行く先を追うと、視界に見覚えのない顔が侵入してきた。

不法侵入だ。

「お兄さん、お名前は」

不法侵入者が僕にたずねる。

「どうして?」

どうして聞くのだ、という意味だ。

「この部屋の人間との関係は」

「今日引っ越してきたばかりで、そこに誰が住んでいるかすら知らない」

「…ああ、そう。邪魔したね」

全くだ。

男はそれきり顔を引っ込めてしまった。

吸い殻をひねりつぶして立ち上がり、部屋に入るとチャイムがなった。

レンズから覗くと、笹木が立っていた。

ドアを開け、

「タッパー?」

と尋ねる。

「いや、違うんです。どうやら上の部屋に警察が来てるみたいなので」

警察だったのか。

どうりで横柄な物言いだったのだ。

「はあ」

「何かあったんですかね」

「さあねえ…」

僕にとっては一向にどうでもいい話題だったが、シチューの手前あまり邪険にはできないので困っていると、隣室のドアが開いた。

「藤木ですよ」

と女が言う。

「ご存知なんですか」

笹木という男はこういう事に興味があるようだ。

「詳しくは…。でも麻薬か詐欺か…ひょっとしたら殺しか」

「え、ええ!?」

笹木は大袈裟に驚く。

僕もさすがに殺しには驚いた。

頭の上にそんな人間がいるなんて考えると、あまり気分はよくならない。

「そういう男なんです、藤木は」

女はそういって疎ましげに上を見た。

三人の中にしばらく沈黙が腰を落ち着けていると、

「ほら、帰った帰った」

と藤木という男の声が聞こえる。

それに追われて屈強そうな二、三人のスーツの男たちが階段をおりてくる。

みな一様に憮然とした表情だ。

「ないもんはないんだよ、早く帰りやがれ」

藤木の言葉に追い払われて男たちは去っていった。

僕たち三人の視線に気付いたように、藤木が振り返る。

「おう、幸恵。」

ひゃっ、と短い悲鳴をあげて女は扉を閉めた。

それを見た藤木は扉をどんどんと叩いて、

「俺の何がそんなに嫌なんだよ、出てこいよ」

とわめきちらす。

面倒に巻き込まれたくないので僕も扉を閉じた。



そうして窓の向こうの部屋に目を転じると、明かりが点いていた。

僕の胸の底にどす黒いものが広がる。

それをおさえるために、タバコに火を点ける。

煙は室内に充満。

つけっぱなしのコンポから垂れ流しの音楽。



その時に廊下から聞こえた声は、そのどちらをも切り裂いて、僕の耳にその空気の振動を伝えた。

「やめろよ!!」



それは多分、笹木の声だった。
この辺りは都会だといっても、ベッドタウンという位置付けなのか、マンションやアパートが多いようだ。

最寄りのコンビニまでの道は左右を8・9階のマンションに挟まれている。

視界の端に、マンションに入っていく男女を見た。

楽しそうに腕を組んでいた。

男も女も笑っていたから、きっと楽しいんだろう。

もちろん全く知らない人間だ。

僕は、二人の笑顔の表にも裏にも興味はない。

きっとみんなそうだろう。

この街はそういう所なのだ、多分。



コンビニで用を済ませてアパートに戻ったころには日はもう暮れていて、無機質な明かりが街を照らし始めていた。

太陽が沈んでも、まだ明かりを欲するなんて、人間はよほど暗闇を恐れる生き物なんだろうな。

と、思いながら部屋の明かりを点ける。

矛盾する性質、これもまた人間の本質なのかも。

床に腰をおろして冷たい弁当をすこしずつ食べているところに、

「すみません」

という声とともにノックの音が聞こえた。

女の声ではなかったから隣人ではない。

立ち上がって、ドアを開くと、僕と同じか年下の男が立っていた。

「すみません」

男はもう一度言った。

「なんですか」

多少突き放すような言い方になったかもしれない。

本心はあまり隠せない性格なのだ、僕は。

「あの、これ、作りすぎちゃって。もらってくれませんか。」

男が僕の目の前に突き出したのは、ビーフシチューだった。

「そこの人には断られちゃったんです」

と泣き出しそうな顔で僕の部屋の隣を指す。

シチューはまだ温かそうで、冷たい弁当に少し嫌気がさしていたので、食欲をそそった。

「いいですよ、いただきます」

本心が隠せない性格なのだ、僕は。

「ありがとうございます」

本当に嬉しそうな顔で男はいう。

「僕、203号室の笹木と言います。容器はいつでもいいので。」

と聞きもしない名前を言ってさっていった。

快活、という言葉が似合う、一般に言う好青年だ。

僕は苦手なタイプの人種。

作り手と料理に繋がりはないのか、しかしシチューは美味だった。

すっかり平らげて容器を流しに持って行って、水ですすいでいるときに、あることに気付いた。

あの男に、自分の名前を言うのを忘れていたのだ。

あの時の僕は、興味がシチューにしかなかったのだろう。

つくづく…と自分の性格に苦笑する。

その時だ。

上の階が騒がしくなったのは。
その建物は、
静かな住宅街とでもいうのか、
人気のない、
しかし住宅の多い地区に建っていた。

周囲を車一台やっと通れる程度の狭い道に囲まれていたので、
夜になると静寂が大気を包んだ。

アパートに引っ越したその日、
僕が廊下に洗濯機の設置していると、
隣室の住人が、
ガタガタという音を不審に思ったのだろう、
怪訝な顔を扉から覗かせた。

「こんにちは」
と隣人が言う。
おそらく社会一般には美人の部類に入るであろう彼女は、
確かに僕の目から見ても美人なのだが、
何が原因か、
寂しげな空気を背負っていて、
それが多少彼女の印象に陰気という形容詞を含ませる。

「こんにちは」
挨拶の後、
社交辞令的な引っ越して来た人間がする自己紹介をした。
彼女はそれで満足したのか、
怪訝な表情はそのままだったが、
自室に入っていった。
どんな人間が同じ建物に住んでいるか、彼女は知っておきたかったのだろう。
僕はそういうことに興味がない方なので、
僕から彼女に質問することはしない。

洗濯機の設置を終えた僕も扉を開いて中に入る。
引っ越してすぐの家に相応しく、
雑然としていて、
まだカーテンのついていない大きな窓から、
都会特有の滲んだ夕日の光が差し込んでいた。

その後も手近な段ボールから片付けていたが、
ふと気付くと滲んだ夕日も沈んでしまっていた。
腹は特に減っていなかったが、
時間は夕飯のそれだったので、
コンビニにでも買いに行くことにする。
本当は自炊したいところだが、
なにしろ引っ越してすぐなのでそうもいかないのだ。

財布を求めて、
まだ散らかっている部屋をひっくり返していると廊下から声が聞こえた。
会話に必要なそれよりも大きな声で、
しかも妙な調子だ。

財布が見つかった。

玄関で靴を履いていると、
さっきの声が、
さっきより鮮明に聞こえてきた。
「出てこいよ。いいじゃねぇか。」
扉を叩く音が聞こえる。
どうやら隣のようだ。

僕が廊下に出ると、
騒いでいた男は気まずそうな表情をして僕の横を通り過ぎて、
階段を降りていった。

鍵をしめて階段を降りる。

夜の帳は下りている。

虫は鳴いていない。


建物を出ると、
先程の男がまだアパートの下にいた。