食事時間がもたらす効用
日に三回の食事時間は、日々の生活にメリハリをつけ、単調な時間のながれに句読点のような役割をはたしているのかもしれない。つまり、食事時間により、仕切りなおしをするかのように、食後は気分新たに活動することができるのだ。
その食事を楽しむという伝統的な人としての文化を単に必要なエナジーを補給する、動物でも空腹を感じれば、餌を食べる,その様と同等に考えていた近頃の私であった。
食事を用意し、小皿に盛り付け、食卓に並べる。当たり前の食事の用意、後片付けのわずらわしさなどを考えると、私は次第に手抜きを試みるようになり、やがてはそれが習慣に、食事時間は私にとって、本来の意味をないがしろにし、単に栄養補給の時間としか考えず、料理の味を楽しむなどは二の次、三の次で、食卓に料理を並べることさえ、省略した。
さすがに冷蔵庫の前に立ったまま、取り出した食材を口に運ぶ、などというところまでは至らず、それでも平気で恥ずべき食事態度が習慣になっていたのだ。何もかも、自分自身の怠け癖が原因だった。
久しぶりに上京し、数日間滞在している間は、食事の支度を引き受けてくれると娘が申し出てくれたので安心して、支度が出来たと声を掛けられるのを待っていた。いざ食卓に向かうと、メインの皿を囲むように数種類の小皿が並べられていた。それは一人暮らしでは当たり前になっていた単品メニューとは程遠い食欲をそそる食卓だった。
いただきます、と感謝し、箸を手に取った私は飢えた獣のように、右端の小皿から次次と平らげていった。自身では全く気づかなかった飢えた獣のようにガツガツした食事の態度を目の当たりにした娘は、さぞや驚いたのだろう。一言、どうして一皿ずつ食べつくすのか、と。食卓の上に並べられた料理を満遍なく味わえばいいのに、と。私には返す言葉もない。
最近の私にとって、毎日は何事も無く、一日の時間が経過することだけを願い、貴重な日々の暮らしを楽しむようなゆとりを忘れていたのだ。一人の人間として、与えられた日々の命を大切に、存分にエンジョイし、有意義に貴重な一日、一日を過ごそうと猛省している。
その手始めは、たとえ貧しい食卓であっても、まずは料理を食卓に並べ、ゆったりと食材を味わいながら、食事時間を楽しもうと思っている。
この食事のマナーこそ、人として先祖代々受けついてきた文化なのだ。
。