以下は私のおぼろげな記憶を頼りに当時の出来事を記したので、思い違い、誤解、などなどにより、事実とは異なる箇所も多々散見されるとは自分自身でも危惧しているのだが、今では想像しがたい電話サービス誕生までのてんやわんやの権利をめぐる争奪戦を記しておきたかっただけなので、読み飛ばしていただければと願っている。

おそらく昭和四十年後半、世の中も人々も、敗戦からの復活を合言葉に新生日本の誕生に向け、活気に満ちていた時代の出来事だった。

 

ある朝、朝刊、今にして思えば、折り込み広告の記事が目に飛び込んできた。このたび、個人名義であっても電話サービスが利用可能となる、と。希望者は往復はがきに必要事項を記入し、応募すること。

急いで往復はがきを買い求め、とりあえず投函した。希望者が多数の場合は、抽選で決定する、と。要するに当選しなければ、先に進めないのだ。当選と記されたはがきを一日千秋のおもいで、待ちわびた。結果、届いたはがきには当選と赤いスタンプ。指定された日時に電話局に到着。入り口で渡された番号札を握り締め、自分の番号が呼ばれるのを待った。

ここで初めて窓口で一対一で、係りの人と質疑応答する。

だが、本格的な手続きを開始する前に、いまひとつのハードルがあった。割り当てられた債権の代金を支払わねばならず、なけなしの現金と引き換えに、茶封筒にはいった債権とやらを受け取った。あの大金が茶封筒に化けたと思うと、複雑な心境だった。

ところが、電話局のドアから、外に出た途端、数人の男性に取り囲まれた。彼らは口々に言う。債権を買い取る、と。債権を手放しでも、権利は残る、とのコトバを信じた結果、五分とたたぬ間に、札束から茶封筒、茶封筒から札束へと姿を変えたことになる。今でも当時のことを思い出すたびに、頭の中は?で一杯になる。

次回の指定日に再度電話局に行き、番号を呼ばれ、窓口でへ。ここで初めて本格的な手続きが始まった。係りから希望する電話番号の有無を尋ねられ、別に無い、と答えると、局番と電話番号が記された紙を渡された。これがあなたの電話番号になります。と。

電話番号なんてこだわる必要も無いだろう、などと考えていた私は、大金を支払っても縁起の良い電話番号を手に入れたいと願う人は珍しくないという現実を目の当たりにしておどろかされたのだった。

 

確かに商店の看板などには,でかでかと電話番号を記した例が大部分だった。人々の記憶に残る電話番号なら、新たな顧客の獲得に役立つだろう。

世事に疎い私にとっては驚きの連続だった。

結果、電話回線の引き込み工事の日取りが決まり、いよいよ我家でも電話で相手と会話できる夢のような生活がはじまったのだ。

当時、小学生だった子供たちの学校では、新学期の始まるときに、クラス全員の住所、名前を記したプリントを配ってくれたのだが、おそらく四十人編成の中で、自宅の電話番号を付記する人はごくまれだった。

勿論、私は自宅の電話番号を誇らしげに記入しようと新学期祖を待ち構えていた。

当時、電話番号は一種のステータスシンボルのように思われていたのかもしれない。

ちなみに当時の名簿などで時折見かける

、呼を丸で囲ったしるしは呼び出し電話を意味していた。隣近所の電話

を利用させてもらおうとのちゃっかりした計画だったそれにしても、何とものんびりしたご近所付き合いだった。

すべてが遠い昔の懐かしい記憶だった。。

制服か私服か

中学の入学式に着用する予定の制服が間に合わない、こんな不祥事が発生し、大騒動になっている、とメディアが大々的に報じている。未だに制服着用を義務付ける学校が存在すること事態が何か時代錯誤のように感じられた。この制服制度かあるいは私服での登校を認めてもらいたいと願う父兄側とでの意見の相違はなかなか折り合いがつかず、戦前から私立の女子高に進学予定の子女を持つ家庭では重大関心事だったのだ。