許容範囲
ちょっとしたマイナ ニュースだったが、その衝撃波はボディブローのごとく、私の心を揺らし続けている。
都内在住のある人が隣家の庭の池に住む蛙たちの鳴き声がうるさいと、騒音被害を訴えたそうだ。喜ばしいことに、その訴状に対し下された判決は、蛙の鳴き声は自然の音であり、騒音として認めることはできないとして訴えは却下されたとのこと。
万が一にもこれが騒音として認められるようなことがあれば、初夏のころに二十四時間なき続ける油蝉は真っ先に騒音と認められ、一網打尽に殺処分の憂き目にあうことだろう。
以前にも騒音の苦情に関連したご近所トラブルの話題がしばしば報道されたことがあった。
除夜の鐘がうるさいから鐘を突く時間帯を昼間にしろ、とお寺に怒鳴り込んだり、付近の保育園の子供たちが毎朝大声でおはようございますと挨拶する声がうるさい、と保育園に苦情を申し立てたり、結果、保育園では窓を閉め切った室内で、朝の挨拶をするように気を使ったり、集合住宅では、階下の生活音がうるさいとか、上の階に住む子供たちの足音がうるさい、とか、その程度の騒音でも我慢の限界なのかと呆れざるを得ないのだが、そんなにもピりピりしていては自分自身の実が持つまいと同情してしまう。
なぜ、このように人々は我慢する余裕を失ってしまったのだろうか。各自の許容範囲が限りなく狭められている昨今の世相。
しかも過度に反応するのは音、騒音にたいしてだけではないのだ。
このような騒音被害の訴えは、正常な社会人から見れば、全く説得力のない訴えであり、そもそもそれらの音を騒音と考えるその過剰反応のほうこそ理解に苦しむのである。
一部の人々ばかりか社会全体が病んでいるように思えるのは私だけだろうか。その神経はむき出し状態でささくれ立ち、少しの刺激にもひりひりと痛むのだろう。
人々が神経疾患の類、潔癖症にかかっているのではと密かに疑いたくなる彼らの過剰反応の対象は音、騒音だけではない。匂い、勿論トイレやキチンの匂い以外にも体臭を含め、室内の微妙な匂いも我慢できないらしい。そこで絶えずデオドラントなどの消臭剤を噴霧していないと気が休まらないのであろう。だが、そのサート噴霧する快感は病みつきになり、消臭剤の次は芳香剤、とあたり一面に噴霧し、さらに蚊がでる季節になれば殺虫剤、更に現在のコロナ禍の渦中にあるため消毒薬の噴霧、いくらこれらに含まれる化学物質は無害だと説明されても心配性の私には手放しで安心できないのだ。 長い目でみれば、このような多種類の化学物質を含んだ空気を日常的に吸い込んでいれば、何らかの健康弊害がおこるのではないか、と。
何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。このことわざを心に留め、何事もほどほどにすべきである。また不快と感じる刺激にたいしてもゆとりを持って許容し、視点を変えて受け入れるように努力すべきだと痛感している。さもないと残り少ない時間がもったいない。できる限り楽しく、おおらかに日々の暮らしを楽しむためにも。これは自分自身に言い聞かせている努力目標である。