常識か?非常識か?
時たま、唖然とさせられるようなニュースが飛び込んでくることがある。これもその一つである。
ある離島に必要量のワクチンの第一陣が届いた。ワクチン担当の責任者は、受け取ったワクチンをあらかじめきめられている優先順位にしたがって、無事にワクチン投与を完了。その後片付けをしていた責任者は、使用した注射器の中にわずかではあるがワクチンが残っているのを発見。貴重なワクチン、たとえ少量であっても無駄にはできない、と考えたこの責任者。なんの迷いもなく、使用済みの注射器に残っているワクチンを丁寧に集めた。結局、救出したワクチンは優に数人分に投与するに十分な量になった。そこで、まだワクチン投与の順番待ちの医療従事者の数名にこの寄せ集めのワクチンを投与した。彼はワクチンの有効利用に貢献したと鼻高々だった。そのため、彼は自身の行為を誇らしげに報告したのだが、事実を告げられた上司は烈火のごとく怒り、彼を激しく叱責したそうだ。だが、ご当人は叱責された理由が理解できない。良かれと考えて行ったのに、なぜ、非難されるのか。確かに、彼がもったいないと思い有効利用を考え付いたのは、常識として当然の行為のように思えるのだが。彼が取り扱ったものがワクチンという特殊なものだったがために、彼の行為は一歩間違えば重大な健康被害を招いたかも知れないのだ。それでは彼に欠けていたのは何か、私なりにいろいろと推理を試みた。
恐らくは彼と同類の思考回路を有していると思われる人々の愚かな行動が頻繁に報道される。
たとえば、不要な外出は極力控えるように、との行政の要請を無視し、行楽地や盛り場に家族連れで繰り出す人々。或いは飲み屋などではアルコール類が飲めないと知った人々は路上で仲間たちと飲み会を開き、大声で騒ぎ、盛り上がっていたとか。
ふと十数年以前の記憶を思い出した。当時、ある学者か研究者が当時の人々の行動を無言の羊の群のようだと表し、警告していた。つまり、自分自身の考えを持たず、多数派の後に従う、このような自主性に欠けた人々の行動に危うさを感じた彼の警告だった。残念ながら、現在に至るも相変わらず、人々は羊の群状態から抜け出していないのだ。
もしも人々に自分自身の頭で考え、意思決定をする習慣が備わっていれば、おろかな振る舞いは減るのではないかと思うのだが。たとえば、政府側の要請を聞いたら、その真意を考え、自分なりに納得すれば、要請を無視して見つからなければかまわない、そのような浅はかな行動には至らないはずだと私は思う。彼らに欠けているのは、使いかっての悪い常識ではないのだ。常識が機能するためには、絶えず時代の流れに合わせ,更新し、日々、ブラッシアップを怠けないようにする必要があるのだ。さもないと、後生大事に持ち歩いていた常識はいつのまにかほこりまみれの骨董品と化してしまうかも知れない。
結局、私なりに考えた結果、もっとも大事なことは自分自身の頭で考え、意思決定に至るプロセスは自分自身の責任において行うことではないか。