もしかして、デジャブか?

 

最近の世の中の空気感はなぜか以前にも経験したことがある感情と似通っているように思えてならないのだ。

戦時中、特に配色がこくなってきたころの記憶に残る自分自身の感情と酷似しているのだ。

当時と現在とでは似ても似つかぬ政治体制の下で暮らしているのだが、生殺与奪の権を掌握しているトップの決断は国民全員の暮らしや命に多大の影響を与える。その点は今も昔も変わらないのだ。

これら二つの時代の空気は、一見、何の類似点も無いように思えるのだが、視点を変え、約半世紀以上も昔と今現在の人々の間に蔓延しつつある心理状態に注目してみると、意外にも酷似していることに気づくだろう。

では、何が引き金になって、そのような心理状態が人々の間に蔓延したのだろうか?

二つのケースの具体的な事象の相違点は無視し、引き金となりうる動きに注目してみた。

これら二つの場合とも、すべての発端は政権トップによる決断だ。前者の場合は、国力や軍事力の点でも到底敵わない世界の超大国に対し、宣戦布告するに至った決断である。

後者の場合は、未だに感染症の封じ込めに成功したとはいえない国内事情を抱えながら、周囲の反対意見を聞き入れず、予定通り、オリパラの開催を決断したことだ。

このような決断がいかに無謀で、リスクが大きすぎると感じたところで、庶民は個人の力では全くの無力であることを思い知らされる。

更に、この二つの場合の共通点は、自分たちの行く手にはなにやらよからぬものがまっているのでは、と庶民は皆、正体不明の相手の影を払拭できずに悩んでいる。

しかも、このような無謀な決断の結果が凶と出るか,吉と出るかは、すべてが終了するまで、誰にもわからない。

このような状況下であっては人々がもやもやした気分に悩まされるのは当然であろう。

世の人々がコロナ禍により精神的に追い詰められているのは、コロナ禍だけではなく、政権トップによる決断がもたらした不安感が更なるストレスとなって、人々を悩ませているのかもしれない。

そのような各種の不確定要素に対抗し、自分自身の防御に苦慮するなかで、人々は本能的に外部からの警告やネガティブな情報は全て無視して身の平安を保とうとする。その行為は自暴自棄ともいえるかもしれないのだが。

かくして人々は刹那的な娯楽や快楽を求める。外部からみれば、不謹慎とか愚かな行為などと批判の的となるだろう。だが、これらは人々が考え付いた本能的な自己防衛であり、自分自身の精神のバランスを維持するための必死の行為であろう。

戦時中、空襲警報が鳴るたびに。あわてて防空壕ににげこんでいたものの、終戦間際の頃は、空襲警報が鳴っても、防空壕には逃げ込まず、防空頭巾をかぶったまま、爆音が遠ざかるのを待ちながら、闇でやっと手に入れたおさつを家族でかじっていた当時の投げやりな気分を思い出す。

縁起でもないが、やはり歴史は繰り返すのだろうか。

何事も起こらず、無事に全てが終了し、通常の生活がもどってくることを心から祈るばかりである。