お盆の季節
今年もお盆の季節がやってきた。毎年のごとく、この季節になると、人々はふるさとを目指し、里帰りに出かける。民族大移動とか、この季節、都市圏では街中がガラガラになる、といわれてきた。それほど多くの人々がふるさとへと里帰りする、
私のようなふるさとを持たない者にとって、ふるさととはなんと甘酸っぱい響きに聞こえることだろう。
私にとってふるさととは、残念ながら何一つ思い当たることがないのだ。強いて言えば、生まれたところが故郷とよべるのかもしれないが、もはや何一つ実態がないのだ、言ってみれば、根無し草のような暮らしだったのかもしれない。記憶の中のふるさとは空襲により消滅してしまったのだ。さすがに住所は残っているかもしれないが、肉親も親族も、ましてや顔見知りの人もいない、ただの住所ではふるさとだとは呼べないのだ。ふるさと、傷ついた心を暖かく包んでくれる。心のよりどころ。いつでも暖かく迎え入れてくれるふるさとがあるから、人はがんばれるのかもしれない。たとえ、実態が無くとも、幻のふるさとであってもそのふるさとを夢見るだけでも、なぜか現実逃避した気分になるから、不思議だ。
私のようなアナログ世代にとっては、ふるさとは永遠の桃源郷なのだが、次世代のデジタル世代の人々もふるさとの安らぎを求めるのかと、ふと気になってしまった。
このまま世の中が進化し続ければ、ふるさとと呼べる故郷を持たない人々が珍しくなくなるのではないか。高層マンションの一室で生まれ育ち、やがて独立しても、同じように高層マンションの一室で家族を持ち、子育て、社会人として働き、やがて現役を引退した年代がふと、自身のふるさとに思いを馳せるだろうか。そのときに、彼らが心に思い描くふるさと、とはどのような情景を心に描くのだろうか。まさか、高層の自室からはるか下方の光景だろうか。おそらく、デジタル世代の人々はそのような感傷的な気分になることはないのかもしれない。一言で言えば、アナログ世代のようなウエットな感情とは無縁で、ひたすらドライな感性の持ち主かもしれない。それも次世代の流れに沿った変化であり、当然の流れなのだ。
時代は激変した。時代遅れのわれわれも嘆いてばかりいないで、早く、時代が激変している現実を直視し、容認するべきなのだろう。