失われた連帯感

最近、憂慮すべき社会問題として注目されているヤングヶアラーの実態。

だが、このようなケアを引き受けざるを得ない幼い子供たちは昔にも存在していたのだ。このような幼い子供たちを取り巻く環境は全く異なっているのだ。

おぼろげな記憶の中から浮かび上がってくるのは冷え冷えとした教室の雰囲気とは真逆のほかほかと暖かで懐かしい空気感である。

赤ちゃんをおんぶして登校してきた友達を暖かく歓迎し、先生とクラス全員はみんなで子守をしようと意気込んでいた。背中の赤ちゃんが泣き出すと、オムツが濡れてる、とかおなかがすいたのでは、などと口々に心配し、家にあるオムツを持ってくる、だとかおしゃぶりを持ってくるとか、クラス全体が赤ちゃんの話題で盛り上がった。今ではありえないことだが、あの当時、先生は母親で、クラスの子供たち全員が同じ家族のように強い連帯感で結びついていたように思う。その連帯感は、ある意味で、運命共同態のようで、クラスの一人が困っていれば、それは他人事ではなかったのだ。

 

今の世の中で、当時のような強い連帯感を期待するのは無駄である。世の中は当時とは全く異なってしまったのだ。

連帯感が希薄になってしまったのは、家族間だけではない。同じ職場の同僚同士、テレワークの普及も一役買っているようだが、また、団結の象徴だった労働組合内部でも脚並みがそろわないそうだ。

思うに、今の人々は縛られることを嫌い、自由気ままにネット上を移動し、たまたまであった人とのつながりを楽しむ。だが、このつながりはいたってゆるく、長続きはしない。人々はこのようなゆるい関係を好むのだろう。

グローバル社会に適合するには、このような生き方がふさわしいのかもしれない。 良いか悪いかは時の審判を見守ることだろう。