迂達赤テジャンであるチェ・ヨンの一日は非常に多忙である。
チョナの警護に迂達赤の鍛錬、それ以外もチョナから政治的なアレやコレを押し付けられ、息を吐く暇もない。
それでも合間を見計らって、出来るだけ四阿に向かってしまうのは何故だろう。
「忙しいのにいつも悪いわね、テジャン」
「…いえ」
今日のウンスは何故かいつもより機嫌がいい。
飯が大盛りだったのか、それとも王妃様から甘味でも賜ったのだろうか。
何でもいいが、彼女が笑うとヨンの疲れた心はじんわりと温かく元気になる気がする。
「さあ、始めましょ」
珍しくウンスから声がかかる。
どうしたと言うのだ。
初めは確かにあった鍛錬へのやる気が、日を追うごとに萎んできているのを感じていた。
あまり厳しくしてはいけないと思いつつ、それでも少しくらいは身を守る術を身につけた方が良いと続けていたのだが、正直今日にもやめようと言い出すんじゃないかと思っていたくらいだ。
「…では」
ヨンが構えるとすかさずウンスは足首から短刀を抜き、突いてきた。
「えいっ」
さっと身体の向きを変え、かわす。
「やぁっ」
間髪いれず二手目を繰り出す。
三手目、四手目。
いつもと動きが違う。
「どうしたのです」
「へへん、今日のウンスさんはいつもと違うわよ。
ちょっとしたコツを身につけたの」
「ほう」
ヨンの目が細く眇められた。
「それは頼もしい。
では今日はもう少し複雑な動きも鍛練しましょう」
「…え?まだあるの?」
「やめますか?」
「や、やめないわよ!望むところよ!」
気の強さだけは誰にも負けないウンスが、ヨンをきっと睨み返す。
「気概は十分です」
ヨンは笑った。
どうやら認めるしかない。
多少の無理を押してもつい此処へきてしまうのは、彼女と過ごすこの時が楽しいからだ。
それから数回鍛錬を続けるうちに、彼女の腕は見違えるほど上達して行った。
ヨンの教えがいいから…と思いたいが、どうやらそれだけではない気がする。
「まことに…何かあったのですか?」
「私の上達の秘密を聞きたいの?
そうねえ…強いていえば、自主練習かな」
「自主練習」
「なに、疑ってるの?」
「いえ」
もちろん自主練習のせいもあるだろう。ただ、誰かに教えを乞うているのは違いない。
ヨンが教えていないことも出来るようになっているからだ。
たとえば、足の運び方。
地からなるべく上げず、擦るように足を運ぶ。
基本中の基本だが、地味な鍛錬が必要故に、ウンスには難しいだろうと言わなかったことだ。
それが出来ている…とまでは言わなくとも様になってきている。
おおかた武閣氏にでも教えて貰っているのだろう。
ヨンはそう思っていた。
*
そんなある日、迂達赤の兵舎に叔母が訪ねてきた。
武閣氏の長でもあり、王妃様付きの尚宮でもあるチェ尚宮だ。
「何です、叔母上」
「ちと、良いか?」
顔を貸せ、と言うように顎で外を指す。
小柄ながら妙に威厳がある叔母は、ヨンにとっても頭の上がらない、たった一人の家族だ。
叔母の後について、ヨンも練兵場の周りを歩き出す。
「そろそろだな」
「何が?」
「お前の隊長の命日だ。まさか忘れていたのか?」
「…忘れてなど」
忘れる訳がない。
七年前、ヨンのテジャンはこの王宮で命を落とした。
その時のことは疵となって今でもヨンを苦しめている。
「今年も行かないのか?一度も行ってないだろう」
ヨンは口を噤んだ。
あんなに尊敬し、慕い、ヨンの全てだった師。
その墓に行きたくなくて行かない訳ではない。
ただ、足が向かなかっただけだ。
何故かはわからない。
「叔母上。
そんな話をしにきた訳ではないでしょう」
「ああ…医仙のことだ」
「医仙?医仙が何か」
「お前…何か叔母である私に何か言うことはないか?」
「はっ?何を?」
「だからだな、つまり…
お前と医仙がその、」
「何です?はっきり言ってくれ」
「つまり…
お前たち二人は出来ておるのか、って聞いているのだ…!」
「………はあっ??」
驚きすぎて声が裏返りそうになった。
この叔母はなんて事を言うのだ。
突拍子もなさすぎて口が開いたまま塞がらない。
「そんな訳が…!どこからそんな…」
「……何だ、お前じゃなかったのか」
「何?どう言うことです」
「いや、夜な夜な医仙の部屋から話し声が聞こえる、と武閣氏がいうものだから」
「……何だって」
チェ尚宮は武閣氏からの報告をヨンに話した。
「ただ…おかしなことに、出入りしているところは見かけないと言うのだ。
だから私はてっきりお前が忍び込んでるものと…おい、どうした」
「俺じゃない」
自分でもゾッとするような低い声が出た。
「……だろうな…おい、ヨン、どこへ行く!」
ヨンは歩き出した。
叔母の呼び止める声が後ろから飛んできたような気がするが、そんなことを気にする余裕はなかった。