その日の夜。
自室へ戻ったウンスは足から短刀を外し、卓の上に置いた。
黒くてやや大きめの短刀はウンスには少しばかり重い。
だが慣れなければ、となるべく身につけるようにしている。
せっかくチェ・ヨンがウンスにくれた物だ。
きっと愛用していたものなのだろう。
鞘にも柄にも細かい傷が沢山ついている。
ウンスはその短刀を見ながら、そっとため息をついた。
彼女がチェ・ヨンから短刀を貰い、護身術を習い始めて数日が経つ。
困ったことに、ちっとも上達している気配がない。
今日も一時間はみっちり練習してようやく足からスムーズに短刀を抜くことが出来た程度、その後は案の定ダメ出しの嵐だった。
(学生時代はそこまで運動音痴じゃなかったと思うんだけど…)
とにかく難しすぎる、というか、求められていることが高度すぎる、というか、そもそも何を言ってるのかすら理解できない。
こう見えて、気にしてるのだ。
口には出さなくてもテジャンの顔に落胆のような、呆れたような表情が見えると申し訳ない気持ちになる。
ウンスは短刀を再び手に取ると、構えを取ってみた。
「えい!」
右手を前に突き出す。
「やぁ!…おっとっと」
腕を引き戻してまた突き出した瞬間、よろめいた。
何度やっても同じだ。
「・・・基本がなっておらぬな」
「ひぃっ」
突然の声に驚いて、勢い良く振り返った瞬間、驚いて短刀を手から離してしまった。
短刀が宙を舞い、男に向かっていく。
「あっ危ない…!」
男は飛んで行く短刀をひょいと躱しながら、いとも容易く右手で短刀の柄を掴んだ。
「いやだ、ごめんなさい!大丈夫?!」
「ああ。
驚かせてしまってすまぬ。
この前の礼を言いにきたのだが、中で何やら鍛錬をしているようだったのでな。
勝手に入ってしまった。
大事ないか?」
「昨日のアジョッシ!
ムンさんじゃない!」
いつ入ってきたのだろう。全く気づかなかった。
ムンは掴んだ短刀の手触りを味わうように、回したり親指でなぞったりしていたが、やがてウンスの方へ柄を差し出した。
「ありがとう」
ウンスの手が彼の手に触れた時、あまりの冷たさにビクッと身体が震えた。
顔色もまだ良くない。
「ムンさん、まだ具合悪いんじゃないですか?」
「いや、其方に貰った妙薬のおかげで、すっかり良くなった。
さすが医仙殿の薬だ。
礼を言う」
「あんなのは応急処置で、今日典医寺で待ってたのよ」
「いや、大事ない、いつものことだ」
「いつも、って…馬鹿にしちゃだめよ。胃潰瘍なんか出来てると大変なんだから」
この顔色の悪さなら、ひょっとして潰瘍から出血なんかしてるかもしれない。
それよりもっと悪い病気だって考えられる。
ウンスは本気で心配して言ったのだが、あまりムン・チフは気にした様子はなかった。
「礼と言っては何だが、ちとばかり剣術の指南をしてしんぜよう」
「剣術の指南?あなたも武士なの?」
「ああ、右手一本でも腕にはそれなりに覚えがあるつもりだ」
「一応、高麗一っていわれる迂達赤テジャンに教えて貰ってるんだけど、私全然上達しなくて」
「ほう…高麗一とは…彼奴が」
ムンはニヤリと笑った。
意外にも笑うと随分愛嬌がある。
「知り合い?」
「ああ、童の頃からな」
「そうなの…
ねえ、ムンさんってどこの所属なの?
禁軍でもなさそうだし、その格好は見たことがないわ」
「だろうな。
私の隊は正式ではなく、隠密に動いているゆえ」
「私の隊っていうことはムンさんもテジャンなのね。
それに隠密っていうことは、つまり、ニンジャとかスパイとか?
そこのテジャンなの?凄いわ!
でもそれって喋っていいの?」
「では内密に頼む」
「イエー、じゃあ私も内密にご指導ください。テジャン」
ムンが笑った。
しかしそれは何故かとても寂しそうで、ウンスは何かまずい事を言ったのではないかとちらりと過ったほどだった。
「ではまずは立ち方からだ」
ヨンを思い出しながら、ウンスは両足を肩幅に広げて踏ん張るように立つ。
その彼女の肩にムンがそっと触れた。
「わわわ」
触れるか触れないかくらいの強さだったのに、ウンスは後ろに倒れそうになり、慌てて前へ重心を戻す。
するとすかさず今度は背中をスッと触れられ、いとも容易くウンスは崩れ落ちた…正確には落ちそうになった。
ムンがウンスを支えなければ、床に転がっていただろう。
「その立ち方では、鍛えていない者はすぐに倒されてしまう。
こうやって前後にずらしてみよ」
ウンスはムンの言う通りに立ってみた。
「軸は必ずここ、正中から外れてはならぬ。
軸が前にあれば前しか行けず、後にあれば後しかいけぬ。
敵に動きが読まれる上に、己も咄嗟の動きに応じることが出来ぬ。
故に常に軸を正中に持っておくこと、それが最も肝要だ」
「なるほど」
「手で力任せに突いてはならぬ。
肩の力を抜き、ただ前に突き出すだけだ。
そのほうが素早く突ける」
「こう?」
「ああ、そうだ。悪くない。
あとは己の間合いを知ることだ……」
「間合い?」
「ああ
間合いとは…」
こうしてムンとウンスの密かな鍛錬が始まった。