そういう経緯もあるこの器具はウンスにとって、とても大切なものだった。
だが、だからと言って、決して誰にも触らせないと囲いこんでいた訳ではなく、傷口から石を取り除く時や、刺さった棘を抜く時などはピンセットを貸すこともあったのだ。
だから、誰かが使って返し忘れている、という可能性もなくはない。
(だけど失くなってるのは鉗子なのよね…)
ウンス以外、そう使う者がいるとは思えない。
夫には笑われるかもしれないが、こう見えてウンスは平和主義だ。
揉め事は出来れば避けて通りたい。
何となく漂うトラブルの匂いに、心が重くなるのを感じながら箱の蓋を閉めたところで、さっき出て行ったばかりのアニが戻って来た。暗い表情に、ウンスは眉を顰める。
「…医仙さま…」
「どうしたの?」
「実は…」
ウンスの後に部屋を使ったのはオム医員だという事を聞いたアニは、すぐにその医員のところへ尋ねに行ったらしい。
そしてこっぴどく叱られたのだと言う。
「なんて聞いたの?」
「医仙様の器具が一つ足りないのですが、何か知りませんか、って尋ねただけなんですけど…」
どうやらその言葉に気分を悪くした彼は、そんな物は知らない、下働きの分際で私を盗人扱いをする気か、とアニを怒鳴りつけたらしい。
「聞いた相手が悪かったわね…あまり気にしちゃだめよ」
ウンスはアニを慰めつつ、脳裏に浮かんだつり目の男の顔に不快感が込み上げてくるのを感じた。
オム医員という男はそういう男なのだ。
まだ二十代半ばながら、年嵩の医員よりも態度が大きい。
侍医や高官には媚びへつらう反面、下働きなど立場の低い者には殊更横柄で、気に入らないと怒鳴りつけることもしばしば。
最近になってわかったことだが、この男、どうやら侍医の親戚らしい。
道理で、誰も注意しないわけだ。
(虎の威を借るなんとやら、ってやつか。
よくある話だけど…ほんとそういうのムカつくのよね)
現代でも、一族だからって大して腕も良くないくせに幅をきかせている医者がいた。
ウンスのような、一般家庭の出身でなんのコネもない女医なんて、医者の世界でいえば最下層だ。
それがウンスのファイティングスピリッツに火をつけたのだが。
「あんなに怒るなんて、もしかして…」
「アニ」
ウンスは途中で遮った。
「だめよ、それ以上言っちゃ」
すみません…とアニは謝ったが、本音で言うと、ウンスも同じことを思い浮かべていた。
つまり…『嫌がらせ』だ。
と言うのも、典医寺においてウンスと侍医の関係は未だ良好とは言い難く、特にオム医員のような侍医の腰巾着たちは一方的にウンスを敵視していた。
一方でウンスの方は、その明るく気さくな性格のおかげで、医員より立場が低いとされる薬員や下働きの者から慕われ始めている。
別に派閥を作るつもりは毛頭ないのだが、向こうにしてみれば、ウンスが侍医に対抗しようとしているように見えるのか、態度はあからさまに反抗的だった。
「ですが医仙様、大丈夫ですか?
ないと困られるんじゃ…」
「一応予備もあるから大丈夫。
もう、この件はあなたは気にしないで。
でもまたこんな事があったら困るから、これからはもっと厳重に管理しなきゃね」
チャン侍医がいた時と同じに考えていた自分にも、問題があったのかもしれない。
ウンスは改めて気をひきしめ、この件を大事にするのは止めることにした。
ところが…これだけでは終わらなかったのである。
何となく突然思い立って、アニを再登場させました
どういう立ち位置になるかまだ考えていませんが、お話の進行と共に、勝手に成長していくのではないかと思います
なんと言ってもまだ十三歳
伸びしろいっぱいありそうです
今後ともご贔屓に〜