《2024年1月24日 改訂》
「イムジャ」
「あ、お帰りなさい」
今日も日付が変わろうかという頃に帰宅したヨンは、扉を開けた瞬間、眉を顰めてげんなりした声を出した。
「またですか」
「よっぽどうちが気に入ったのねぇ。
いいじゃない、心の狭いこと言わないの」
「狭くて結構」
一連の会話の間、彼女は一向に夫の方を向かない。
他ごとに夢中になっているからだ。
ヨンはそんな妻に向かって、あからさまに不満に満ちた視線を投げかけた。
此処はチェ家の閨。
高麗のチェ・ヨンと言えば、その圧倒的な知力と強さで国内外に名を轟かせる武将である。
そんな男を唯一軽くあしらえてしまう妻、ウンス。
夫の詰るような視線も気づいているのかいないのか、ウンスの目下の関心事は目の前で戯れる白い猫だ。
「猫ちゃん、ほらほらこっちよ〜」
ウンスは木の枝にテンギを結び付け、そのまた先に房飾りを付けた即席の玩具を振り振り、猫をあやしていた。
ニャニャニャニャッ!!
ウンスの操る房飾りを捕まえようと、飛んだり転がったり、興奮状態ではしゃぐ白い獣。
頑丈な閂も高い塀もなんのその、追い出しても追い出しても舞い戻って来る。
どういうわけだか愛妻に付き纏い、あろうことか閨にまで入り込むにっくき邪魔者。
(くそ、忌々しい奴め……!)
ヨンは拳をぐっと握りしめた。
*
それは三日前…。
いつまで経っても見つからない猫の捜索にかけずり回っていたヨンは、明け方になり、一旦屋敷に戻ってきた。
猫の首輪に付けられていた密書は、誰でも解読できるものではないとはいえ、回収しないですむものでもない。
このまま見つからなかったら、と思うと頭が痛かった。
ウンスはまだ寝ているだろう、起こしたくはないが、少しでも顔を見れば疲れも吹き飛ぶ。
そう思い、寝台で眠る彼女の隣に腰を下ろした…
ぎゃおぉぉぉん!!
「!!!!」
それは、まさに奇襲だった。
布団の中から、何か白い塊がけたたましい声をあげて飛び出したのだ。
生まれてこの方、これほど驚いたことがあっただろうか。
天門を潜った時でさえ、何が起きるか分からないと、警戒していて身構えていたせいで、落ち着いて対処できた。
だがここは夫婦の閨で、寝台で、ヨンとウンスだけの特別な場所だ。
何かが潜んでいるかもしれないなどと、思うはずがない。
思わずヨンは鬼剣を抜いた。
*
ウンスのテンギが大きく宙を舞い、白猫が跳躍する。
ようやく狙った房飾りを捕まえられると、意気揚々と手を伸ばしたところを、ヨンがすかさず横取りした。
白猫はフーッと不満そうに毛を逆立て、ヨンを威嚇する。
「いやぁね、ヨン!意地悪しなくてもいいじゃない!」
「イムジャ、いつまでそうやって遊んでいるつもりです」
「いつまで、って、ほんの10分ほどじゃない。
癒しよ。動物と触れ合うのは、アニマルセラピーって言って、ストレス解消にいいんだから。
あなたもイライラするならやってみれば、ほら」
ウンスは木の枝を差し出した。
「結構です。そいつは俺にはいつも喧嘩越しだ。
全く癒されません」
「それは貴方が初めに剣を向けたからでしょう。
猫は賢いのよ、殺気に怯えたのね、可哀想に…ねえ❤️」
ウンスが甘い声を出して猫を撫でると、こちらも負けずににゃああああん❤️と甘い声を出して、彼女に擦り寄った。
抱き上げられた彼女の胸元の夜着の合わせ目から覗く白い肌を、不埒にもぺろぺろと舐め始める。
ヨンはその首根っこを掴むと、ぐいっとウンスの胸から引き剥がした。
「俺達の布団の中から、こんな得体の知れない物が出てきたら、誰だってそうするに決まっています!」
ヨンは、俺たちの、というところを強調して言った。
「そりゃ、まあ、そうかもしれないけど…
得体がしれないって…あなたの探し人でもあったんでしょ?
良かったじゃない、うちでさ。
こんなに美人さんなんだもの…変な人に連れ去られていたかもしれないのよ。
そうなってたら大変だったわけだし…。
それなのにあなたは、相変わらずか弱い女の子に手荒いんだから」
ウンスはヨンに首根っこを掴まれ、哀れな格好でぶら下がった猫を取り返そうと、手を伸ばした。
それをヨンがひょいっと交わす。
「イムジャ、此奴は男です」
「え、うそ、そうだったの?」
「ええ。
か弱いどころか、テマンでも手を焼かせるほどのすばしっこさで、この上なくふてぶてしい。
どこにいても生きていけます」
「へええ、テマンでも敵わないの…
あなた、ただの運び屋じゃなくて、凄腕のスパイ猫だったのね。
その上、イケメンで女心を掴むテクニックも超一流ときたら、猫界のジェームズ・ボンドじゃないの!」
「何ですか、その…じぇいむ…何とかとは」
「ジェームズ・ボンドっていうのはね、天界で最も有名なスパイ…つまり間諜映画の主人公なの」
「ほう、間諜」
「優れた頭脳と秀でた武術で国家の危機を次々と救っていくのよ」
「なるほど、なかなか興味深い」
「でしょ?その上、女にモテまくりで色仕掛けも得意なのよ…」
ウンスが夢見がちに視線を彷徨わせ、映画の話を始める。
その隙にヨンは後ろ手に閨の扉を開け、そのまま猫を放り投げた。
なおお〜ん
抗議の唸り声が聞こえてきたが、鼻先で扉を閉めてやった。
「あ〜あ…可哀想に」
ウンスがヨンを上目遣いに睨み、呆れたように肩をすくめた。
可哀想なことなどあるものか。
あの猫はスリバンに返そう。また元へ送り返してやる。
向こうで、自分に似合った雌猫とでもよろしくやっておれば良いのだ。
「イムジャ、俺は明日休みを賜りました」
「休み?ほんと?」
「約束通り、貴女の行きたい所へ行きましょう。
何処がいいですか?」
「そうね。
やっぱり紅葉狩りよ、山に行きましょう!」
「山ですか。
そういえば、鹿鍋を食わせてくれる処があるそうです」
「鹿肉!ジビエ!行く行く!」
いやったぁ〜!と喜声を上げ、両手を突き上げて喜ぶウンスに、ヨンは満足げな笑みを浮かべた。
これでこそウンスだ。
イムジャは俺だけを見ていればいい。
例え猫だろうと、俺たちの邪魔をするものは全て排除してやる。
ヨンは心にそう誓った。
【猫はお邪魔虫】終
最後まで読んで下さり、ありがとうございました❤️