《2024年1月20日 改訂》
場所は変わって此処は迂達赤兵舎。
普段であれば非番の隊員達がふざけて騒いでいたり、惰眠を貪っていたり、雑然とした空気が流れているはずなのだが、今日に限っては人気が殆ど無い。
そんな中、突然兵舎を揺るがすような怒号が響き渡った。
「何?!逃がしただと!!?」
その声の主は、この国の大護軍、チェ・ヨン。
高麗にチェ・ヨンあり、と国外にまで噂される勇将である。
この男、平素は滅多矢鱈に激昂する質ではないのだが、ここぞという時に放つ殺気は凄まじく、
部下の間では鬼の異名を持つ。
そしてその鬼の前に頭を垂れているのは、迂達赤の隊長チュンソクと副隊長のトクマンであった。
「はっ!
ただいま手の空いている迂達赤を総動員して捜索していますので…もう少しだけお待ち下さい!!」
チュンソクが頭を下げると、トクマンも滝のような汗をかきながら、大きな体を縮こませ更に深く頭を下げた。
「私の失態です。大護軍、本当に申し訳ありません…!
やけにすばっしこい奴でして…つい、この手からするっと……
無論処分は覚悟しております……」
「報告が済んだらお前はさっさと探して来い!
処分の話は見つかってからだ!」
チュンソクがトクマンの尻を蹴る。
「はっ!すみません…!
必ず、必ずやあの猫を見つけて参ります〜!」
トクマンは全速力で駆けていく。
副隊長になった今も、この二人の前ではいつまでも新人気分が抜けない。
事件のあらましはこうである。
元に忍ばせていた密偵がある情報を猫の首輪に忍ばせ、猫売りへ託した。
その猫売りが王宮までやって来たはいいが、受け取るはずだったトクマンが、うっかり猫を逃がしてしまったというのだ。
「まだ王宮内からは出てはおらぬだろう。
白い猫だと言ったな?
衛兵に話し、見つけ次第捕獲するよう伝えろ」
「何と申せば良いでしょうか」
「チョナに献上するはずだった貴重な猫だとでも言っておけ」
「木天蓼(マタタビ)でも撒いてみますか」
「それは効くのか?」
「さあ…おそらくは…」
「木天蓼(マタタビ)でも鼠でも何でも撒いて構わん、とにかく早急に捕らえろ。
良いな?!」
「はっ!」
チュンソクが出ていくと、ヨンもまたすぐに部屋を出ていった。
大っぴらにはしたくはないが、禁軍にも協力を要請しなくてならないだろう。
それから叔母のところへ行って武閣氏や女官にも捜索を頼もう。
そして…
ヨンは思わず舌打ちをした。
今日はウンスの初出仕の日だ。
今日くらいは共に帰り、夕餉を食べながらゆっくり話が出来ると思っていたのだが、この様子では叶わないだろう。
彼女に今日も遅くなることを伝えねば……。
ヨンは鬱憤をぶつけるかのように、足元の石を思い切り蹴り飛ばした。
*
一方、再び坤成殿へ戻ったウンスは、チェ尚宮に取り次ぎを頼み、早速呼びだして貰った。
「叔母様!」
「如何した?忘れ物か?」
「いえ、女官さんの中に労咳の患者さんが出たって聞いたんですけど、本当ですか?」
「ああ、まことだ。
まだ入って半年にもならぬ見習いの娘だ。
ひどく咳をすると言うので、先だって市井の医員に診てもらったら、労咳だと分かったのだ。
里の縁者に労咳の者がいたことを隠していたらしい」
「その娘さんはどこにいるんですか?」
「今は隔離している」
「その娘さん、きちんと治療受けてますか?。
診させてもらいたいんですけど」
「何を言う?!
労咳だぞ?そなたに感染ったらどうするのだ?!」
当然チェ尚宮は首を横に振る。
「叔母様、私、天界で労咳の治療にも関わったことがあるんです。
適切に接すれば、伝染る訳ではありませんし、その方法もちゃんと知っています」
「だとしても、もう外へ出すことが決まっている娘だ。
やれる事は何もあるまい。
そなたの気持ちは分かるが、そなたは王妃様の侍医なのだぞ」
王妃様の名前を出されれば、ウンスも言い返せない。
後ろ髪を引かれながらも、引き下がるしか無かった。