《2024年1月19日改訂》
「王妃様、お待たせしてしまって申し訳ありません」
「おお、医仙!」
ウンスの姿を見ると嬉しそうに、腰を浮かしかける王妃。
チェ尚宮が咳払いをしなければ、そのまま駆け寄ってきそうな勢いだ。
王妃とは婚姻の報告の時に会って以来だから一月振りになる。
「新しい屋敷には慣れましたか?
不自由はしておリませぬか?
顔色が少し…疲れておられるのではございませぬか?
無理はなりませぬぞ…」
ウンスの顔を覗き込んで矢継ぎ早に質問を投げかける王妃に、彼女は思わず吹き出した。
「これじゃあ王妃様が私の主治医みたいです」
「まあ…」
王妃の頰が赤くなり、それから可笑しそうに破顔した。
「妾としたことが…つい嬉しゅうて」
「王妃様、ありがとうございます。
私、全然無理なんてしていません。
むしろ、こうやってまた王妃様のお身体を診させて頂けることが嬉しいんです。
どうか…これからもよろしくお願いします」
ウンスはぺこりと頭を下げた。
「では、早速…脈を拝見させて頂いて良いでしょうか」
王妃がウンスに手を差し出し、ウンスが手首に指を当てる。
チャン侍医から習った脈診は百年前に過ごした処でさらに鍛えられた。
身元不明者でしかないウンスを拾ってくれた老婆はまるで魔女みたいな変わり者の婆さんだったが、見立ては確かで、薬草の知識ときたらまるで生き字引きのようだった。
ウンスはその老婆から、脈診だけではない、四診(望診、聞診、問診、切診)と薬草の知識を叩き込まれ、そして働かされた。
なかなかのスパルタだったが、あの経験のおかげでウンスは随分成長したと思う。
「少し冷えがあるようですね」
一通り診察し終わって、ウンスは口を開いた。
「それに…何か思い悩むことがおありなのですか?」
労るような口調で尋ねると、王妃は物憂げに目を伏せた。
王妃の悩みはおそらく懐妊のことだ。
四年前に一度流産してから、今まで全く懐妊に兆しはなかったという。
そのため、重臣から王へ側室の話がひっきりなしにやってくるのだと、チェ尚宮が言っていた。
女性ホルモンにストレスは最大の敵だと言うことは、ウンスも身をもって実感中だ。
ウンスの場合は優しい夫が気を遣ってくれるからいいが、王妃の場合は国の一大事…。
いくらチョナが庇ってくれたとしても、王妃自身が気に病むのは致し方ないことだろう。
「王妃様、私、随分漢方の勉強したんですよ。
それに天の知識も加われば、もう最強です。
どん!と私に頼ってくださいね」
妹のように思う王妃には幸せになってもらいたい。
例え少しぐらい歴史が変わってしまったとしても…。
「医仙…いえ義姉様。
妾はそなたが戻ってきてくれただけで嬉しいのに…なんと頼りになる言葉…
どうかよろしゅう頼みます」
涙ぐむ王妃の手に、そっとウンスが手を重ねた。
*
坤成殿から典医寺へ帰る途中、ウンス達が歩いていると、突然ヒステリックな声が耳に飛び込んできた。
見ると、数人の女官達が屯(たむろ)って揉めているようだ。
「だから、私は違うって言ってるでしょ!!」
「ちょっと、寄らないでよ…あんたがあの娘と一緒にいたの知ってるんだから!」
「そうよそうよ」
「何よ。あんた達!酷いわ!」
ただの喧嘩にしては少し様子が変だ。
しかも段々エスカレートしていっているようで、通りがかりの者たちも何事かと足を止めて見ている。
「あの子達、こんな所で…
すみません、医仙さま、注意してきますね!」
走って行ったウォルが注意をすると、娘たちは慌てて散り散りに去っていったが、ウンスは気になりウォルに尋ねた。
「ねぇ、あれはなんの騒ぎだったの?」
「実は…先日労咳にかかった女官見習いの娘がいまして…少しその周りの女官たちが過敏になっているようです」
「労咳?!」
労咳とは結核のことだ。
この時代では不治の病である。そして感染する。
こんな王宮で出るなんて確かに一大事だ。皆がピリピリするのも無理はない。
「それでその娘さんはどうしてるの?
今朝、典医寺ではそんな話聞かなかったけど」
「その娘は里に送り返す事になっています」
「治療は?」
「ここでは出来ません。
仕方ないのでございます。
典医寺はそもそも王様や王妃様のもの。女官見習いの、しかも疫病などとんでもございません」
確かにそれもわかる。
典医寺に結核菌を持ち込むわけにはいかないのだろう。
だがウンスは、ヒポクラテスの誓いのもと、平等に治療を行うことを誓った現代の医者だ。
結核患者を拒絶する医者なんて聞いたことがない。
「ねえ、ちょっと…チェ尚宮さまの所へ連れてってくれる?」
この日初出勤だったウンスは、とにかくやる気に満ちていた。
もし、里に送り返されることが決まっていたとしても、ここにいる間だって治療はすべきである…彼女の使命感がそう言っている。
ウンスは踵を返し、いま来た道を戻っていった。