「ハブる」ってどんな意味ですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113033751
ベストアンサーに選ばれた回答
******さん 2007/10/9 09:30:25
『はぶる』とは仲間はずれにするという意味の俗語『はぶにする』が略された言葉で、『はぶにする』同様、学生の間で使われた言葉です。語源は『村八分(むらはちぶ)にする』の『は』、『ぶ』、『る』で『はぶる』です。
http://zokugo-dict.com/26ha/haburu.htm
むらはちぶ【村八分】
1 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。
村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、
その家と絶交すること。「はちぶ」については、
火事と葬式の二つを例外とするところからともいう。
2 仲間はずれにすること
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「ハブる」またの名を「村八」
これ以上無い良い解説である、と。いつみても感心してしまうベストアンサーである。
大小を問わず、集団あるところに「ハブる」行為は発生し、往々にしてそれは火種になる。
日本人が伝統的に先祖代々受け継いできた行動原則の中にこの行為は深く根付き、火事と葬式の2つを除いて行うというスタンスからも、或る種の美学を以て認められた行為であるように見受けられる。
関川村村八分訴訟 http://timesteps.net/archives/818592.html
などという法廷闘争も過去には存在し、地裁・高裁の双方がこの存在を認め、賠償命令を下している。
いずれにせよ、村八部行為は「権力者・有力者」が、自らの権勢や意見を認めさせるために、特定人物や組織に対して「利益を制限」することを目的として実施するものである。
ここで肝心なのは、これを実施する者は、実際の権力者・有力者である必要は無く、寧ろ、それらを志向する「立場」の人間であることが非常に多い、という点である。
簡単な言葉で言い換えれば
「俺の言うことを聞かないと酷い目に遭わせるぞ」という恫喝を、手下や仲間を使ってやらせる、という陰湿な行為に他ならない。
もっとシンプルな言葉で言えば、それは集団内での「パワハラ」である。「いじめ」とも言う。
村八部とまでいかずとも、利益を共有する集団内部に於いては近い現象が頻発する。それはある程度は仕方の無い部分もある。何故ならば、「利益を共有する集団」というものには、個々の人間的な繋がりよりも「利益」が優先される必要が出てくるからである。それは非情なものであり、「致し方なし」と涙を呑む必要すらある冷たい関係を指す。
しかしながら「利益」という目に見えやすいものが共有されるだけ、人間的な繋がりを全面に押し出した集団よりまだマシ、という解釈もあり得る。
残念ながら悪貨は良貨を駆逐する。何か人間関係を操縦してやろうと故意で介入する人間が一人でも居た場合、集団は操縦を目論む者の信奉者と反発者に一瞬で二分される。この手合いは古今東西男女の別無くとても多く、絶えず自分が心地よい場所を作るために裏で陰口を吹いて回る。常軌を逸した情熱で洗脳をし、同時に反発者も養成する。別段新しくもないカビ臭い手口だというのに、洗脳を仕掛けられた者は簡単に乗ってしまう。最早これは人間が人間である故の不可避な部分として諦めたほうが良いのかもしれず、そこに集団を志向しない人間の集団、などという矛盾したグループも誕生したりする。
前振りが長くなったが、本題に入る。
友情、というのは曖昧な概念であるように見受けられる。どこからどこまでが友人で、どこから先が知人なのか、それは永遠の謎なのではなかろうかとすら思う。
各々個人が定規を持ち、時として友人になったり知人になったり他人になったりする。曖昧模糊とした定規が誰の中にでもある。
私は友人と知人を区分する最も重要な点として、友人とは「直線的なお節介(愛情)をもって接しても関係を壊さない知人」なのではなかろうかと考える。
同じ人間が存在しないように、近いと遠いの差はあれど、全く同じことを考えている人間も居ない。これは大人の対人関係の基本前提である。年齢が下がると、相手と自分を同一化してしまったり、差異を感情的に認められない等の未熟さが発露され、それがトラブルを呼び込む事例は非常に多くなる。しかし、少なくとも20歳を過ぎた人間同士であるならば、相手と己が違うこと、これだけはどんな人間関係でも認め合わなければ何一つ始まらない。
先に申した「直線的なお節介(愛情)」とは、相手が明らかに間違えたときにはっきりと「間違えている」と告げる行為、そして、その成果如何によって付き合いを変えない辛抱強さも指す。
事例としてあげれば、幾ら喧嘩をしても、いつの間にか戻っていられる空気感を持てる相手、それが友人だと私どもは考える。それは決して、自分の言うことを聞かないので絶交する、とか妬ましいので嫌味を言う、とか、そういう一方的な支配的・利害的関係ではない。自分の意見で相手がいうことを聞いてホイホイ変われば、それは「主従」関係となり、もはや友人ではない。そこには友情も無い。
相手が何をしていようと友人は友人のままであり、それは時々人間であるので遠ざかったり近づいたりを繰り返すものではあるが、相手を理解するための衝突と、相手を思って間違いを指摘できること、そしてその状態を幾度も経験しつつも、双方何も変わらなくても仕方がないと、受容できる精神状態、ここの有無が「友情」に繋がる部分ではないだろうかと真剣に思う。
前振りが長くなりすぎたので、一度切って、次回に続きます。